勧められた本

 アラビア語原典から訳出した東洋文庫版『アラビアンナイト』は畏れ多くて手を出せなかったものの、ちくま文庫のバートン版はいっとき書架を飾っていて、結果は、二巻目で断念し、手放した。

 苦い思い出の『アラビアンナイト』だが、古書店の均一本の棚に阿刀田高アラビアンナイトを楽しむために』(新潮文庫)があり、ようやく博識の作家の手引きで概略を知った。

 およそ半世紀の昔、大学の政治思想史の授業で、若くして亡くなられた藤原保信先生(1935-1994)が、マクス・ウェーバーは君たちには難しいだろうから、まず解説本から入ったほうがよいとおっしゃっていて、いやいや、わたしは安直を避けて、原文は無理だけど、せめて邦訳でウェーバーを読みますよ、とひそかに思っていたのに、けっきょく解説本もウェーバーの訳書も『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を除いて読んでいない。

 読破困難な大部の著作や難しい本は解説書や入門書から入るのはいまにして「先達はあらまほしき事なり」と受け容れているのだが、若いときは突っ張っているからそんな安易な道はお断りで、愚かな反面にある若さの心意気だった。

 

 アンドレ・ジッドは一九三六年の六月から八月にかけてソ連を旅しており、そのときの『ソヴィエト旅行記』に、匿名のX氏が「私の若い頃には、この本を読めとか、あの本はやめろとか、周りからよく言われたものです。そうすると当然、私たちの興味は、読むなと言われた本の方に向きます。ところが、今はまったく違って、若者たちは読めと勧められた本しか読まないのです。それどころか、ほかのものは読みたいとさえ思わないのです」と語ったとある。(國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫

 訳者の註釈によると、ジッドの日記から、X氏は作家イリヤ・エレンブルグだったと知れるのだが、このX氏の言葉をうけてジッドは、ソ連の若者たちのあいだでドストエフスキーが読まれなくなっている事態に、当局による洗脳の危険性を見た。

 それは若者たちがおのずとドストエフスキーに目を向けなくなったのか、上から逸らされてしまったのかさえわからないほど巧みな教化で、「たとえ何らかの命令に従わなければならないとしても、その場合には、まだ精神は、少なくとも自分は自由でないと感じることができる。だが、もし精神が、その命令が下されるまでもなく、自ら進んで従うほどになっているならば、もはや自分が隷属しているという意識すら失ってしまっている」と、当時のソ連の文化状況の危うさを指摘している。

 こうして唯々諾々は無気力、場合によっては洗脳につながりやすく、どうやらX氏が語った、読めではなく、読むなと言われた本のほうに向くくらいがほどよい塩梅のようである。

 わたしがウェーバーの解説書や入門書を読まなかったように、と書くと我田引水になるけれど。