「判決、ふたつの希望」

ときは現代、ところはレバノン共和国の首都ベイルート
自動車修理工のトニー(アデル・カラム)がベランダで水撒きをしていると戸外の排水管から水が漏れ、路上で作業中だった現場監督のヤセール(カメル・エル=バシャ)にかかってしまう。
ヤセールは配管を修理したいとトニーに申し入れるが、工事がうるさいからとトニーは拒絶した。するとヤセールは勝手に修理し、それに気づいたトニーは配管を叩き壊した。ここでヤセールはトニーに、この映画の英語原題(THE INSULT)である侮辱の言葉を発したのだった。
工事現場でのトラブルを避けたいヤセールの上司はかれを説得して謝罪させようといっしょにトニーの工場を訪れたが、ことはうまく運ばず、今度はトニーがヤセールを侮辱する言葉を口にしたため、ヤセールはトニーを殴り、二本の肋骨を折るけがをさせてしまう。
怒りの収まらないトニーはヤセールを告訴し、諍いの行方は法廷へ持ち込まれる。

レバノンは、南はイスラエル、北から東にかけてはシリアと国境を接し、西は地中海に面している。この地勢のところに起こった二人の諍いは、レバノン人のキリスト教徒(トニー)とパレスチナ難民のイスラム教徒(ヤセール)との対立となり、裁判の行方は国民注視の的となる。
裁判では二人の境遇に民族、宗教上の対立、内戦の悲劇が大きく作用していることが具体に指摘され、レバノン人とパレスチナ難民に刻まれた傷痕の深さが明るみにされた。
米原万里嘘つきアーニャの真っ赤な真実』に、著者とともにプラハのロシア語学校で学んだヤスミンカがのちに母国ユーゴスラビアで体験した内戦のときのことを「私だって、イスラム教を信じているわけではないし、自分がムスリム人だなんて戦争になるまで一度も意識したことなかった。でも、ムスリム人の両親から生まれているのだから、ムスリム人を否定することも馬鹿げているし、自分はユーゴスラビア人だって、ずっとずっと思っていた。それが、今度の戦争が始まって、否応なく誰もが意識せざるを得なくなった。人間関係がたちまちギクシャクして壊れていった」と語っている。ここには、宗教、民族に起因する対立が個人の思いを超えてどんなふうにエスカレートしてゆくかが端的に示されていて、トニーとヤセールの事件にも通じている。
ならば、トニーとヤセールは、和解と共存と赦しの道をどこに見出せばよいのだろう。映画はこう問いかけ、希望の萌芽を見出そうとする。
原題「侮辱」を邦題「判決、ふたつの希望」としたのはその意を汲んだ結果で、「ふたつの希望」は民族と宗教の対立、内戦の悲劇を踏まえながら、レバノン人とパレスチナ難民がともに生き合う道を探るところにある。
そのうえで、わたしはこの作品にある、希望が生まれる要素を二つ挙げる。
ひとつはトニーとヤセールが懐いた、こんなはずではなかったとの思いだ。たしかに両者の対立は社会的、歴史的要因が作用して、些細な諍いが国を揺るがす大問題へと発展していったけれど、自動車修理工場の経営者と工事の現場監督という二人のオヤジ、生活者として向き合うとき民族、宗教、歴史がもたらす記号や属性は少し遠のき、国を揺るがす大問題とは異なる状況が生まれていた。
もうひとつはトニーの妻シリーン、ヤセールの妻マナール、ヤセールの弁護を買って出た女性弁護士ナディーン、三人の女性の事件に対するアプローチで、ここでも国を揺るがす大問題はまた別の様相を帯びていた。若い妻で妊娠中のシリーンの目に、夫トニーは変化を嫌う頑固者よ映り、マナールは長年連れ添ったヤセールに心の広さと寛容を説く。そしてレバノン人のナディーンはパレスチナ難民の権利を守ることに努めている。そうそう、法廷では彼女にまつわる驚きの事実が飛び出していたが、それは見てのおたのしみ。
クエンティン・タランティーノ監督のアシスタント・カメラマンという経歴を持つジアド・ドゥエイリ監督はハリウッドが育んできた技法をしっかりと活用していて、中東社会の困難と軋轢という重い題材を取り上げながら、判決にいたる過程はスリリングで、ときにユーモアも出来する。
なお本作品は、ヤセールを演じたカメル・エル=バシャがヴェネツィア国際映画賞で主演男優賞を受賞、アカデミー賞の外国映画賞にレバノン映画としてはじめてノミネートされるなど国際的に高く評価された。そしてこの映画のレバノンでの大ヒットに注視しよう。本国での大ヒット、ここにもひとつの希望がある。
(九月二日TOHOシネマズシャンテ)