「ブルックリン」

若い男女がデートで映画館へ行く。「雨に唄えば」を観たあと公園を散歩しているうち男は街燈に手をかけ、さきほど雨中で歌い踊っていたジーン・ケリーをまねる。男が女をはじめて家族に紹介したとき、食卓の話題は野球になった。男はドジャースの大ファン、ヤンキースなんて目じゃない。
雨に唄えば」は一九五二年に公開されている。当時ドジャースの本拠地はロサンジェルスではなく、ブルックリンにあった。
「ブルックリン」はそのころの物語だ。

アイルランドの小さな町からエイリッシュ(シアーシャ・ローナン)という若い女性がニューヨークへやって来て、ブルックリンで生活をはじめる。彼女の将来を案じた姉の勧めによるもので、あらかじめ姉の知り合いの牧師が寮への入居とデパートへの就職を世話してくれ、そのうえキャリアアップのために簿記が学べるようにもしてくれた。
一人で渡米するたくましさを具えるエイリッシュだが、新天地での生活の当初は不安、不慣れ、とまどいの連続だった。やがて寮での生活にも慣れ、ダンスパーティで知り合ったイタリア系移民の青年で配管工のトミー・フィオレロ(エモリー・コーエン)と親しくなるなどしているうちに生活は落ち着き、ニューヨーク生活をたのしむ余裕もできた。「雨に唄えば」は二人がはじめていっしょに観た映画だった。家族に紹介したいというトミーの申し出に応じて出向いた彼の家ではドジャースの話などして歓談のひとときを過ごした。
そんなところへ届いたのが姉の訃報で、彼女は深刻な病気を周囲に隠していたらしく、それだけになおさら唐突な知らせとなった。
一時帰郷したエイリッシュは幼なじみの友人の紹介でジム・ファレル(ドーナル・グリーソン)と知り合い、二人は心惹かれる。けれどブルックリンにはトミーが待っている。いま彼女はニューヨーカーとしてアイルランドを、またアイルランド生まれとしてニューヨークを眺められる立場にある。それにトミーは下積みの技術職、ジムは当時有産階級のスポーツだったラグビーの選手で、御曹司だ。こうして知らずしらずのあいだにエイリッシュの心の世界は広く、複雑になっていたのだった。
美しい映像で再現された五十年代はじめのアイルランドとブルックリンとそこに暮らす人々の心模様が愛おしく、善意の人々の織りなす生活風景と恋愛劇は適度な緊張感とまろやかさを併せ持つ。そしてヒロインのシアーシャ・ローナンの演技は絶妙的確で魅力に富んでいる。(「週刊文春」誌上で芝山幹郎氏は原節子のようと書いていた)
つい先日「ダウントンアビー」のシーズン4までを観た。第一次大戦前後、ある伯爵家の大邸宅における貴族と使用人たちの物語は、一面でおひとの悪い方々の群像劇でもある。自分をないがしろにしていると誤解した伯爵夫人付きの侍女は夫人の風呂上がりの床に石鹸を置き、すべらせて流産を図る。料理長の女は自分の入院中に代理で来た女の評価を下げるため部下に命じて出来上がった料理に石鹸液を混ぜさせる。「ブルックリン」の善意の人たちとはずいぶんと異なるテレビドラマである。
「ダウントンアビー」と「ブルックリン」、これってイングランドアイルランドの気風の違い?
二つのドラマで連合王国を構成する二つの国の精神風俗がわかるはずがないじゃないか、そんな単純な発想に飛びついてはいけないと思いながら『アイルランド短篇選』(橋本槇矩編訳岩波文庫)を開くと、編訳者の序に「虚飾、俗物根性、偽善、出世欲、金銭欲、情欲、権力欲、このようなものが腐葉土のように積もり積もった歴史と文化のある階級社会が長篇小説には必要である」、いっぽうアイルランドはこうした長篇小説が生まれる社会ではなかったとあった。
「ダウントンアビー」はまさしくイングランド社会がもたらしたドラマである。そのイングランド人たちはアイルランド人を「善良なる田舎者」と呼んでいた。善良とはイングランド人の不在地主に黙々と地代を払い続けた謂にほかならない。これらをふまえると「ブルックリン」はアイルランド社会を背景に「善良なる田舎者」を脱しようとした一人の女性を主人公とするジョン・クローリー監督の長篇小説のように思えてくる。
(七月三日TOHOシネマズシャンテ)