「シング・ストリート 未来へのうた」

ジョン・クローリー監督「ブルックリン」は一九五0年代はじめアイルランドの小さな町からニューヨークへ渡り、ブルックリンで生活をはじめたエイリッシュという若い女性の物語で、彼女の渡米はほとんどのアイルランド人と同様に貧困と将来の生活不安によるものだった。
この秀作に刺激を受けたものだからおなじアイルランドを舞台とする「シング・ストリート 未来へのうた」を見逃せなくなった。結論から言えば「ブルックリン」の延長線上でこの映画を知ったのは運がよかったし、ありがたかった。

エイリッシュが渡米しておよそ三十年あまりのち、一九八五年のアイルランド、ダブリン。もともと貧しい地域、そこに大不況の波が襲い、多くの家庭が生活苦にあえいでいる。コナー(フェルディア・ウオルシュ=ピーロ)の家も例外ではなく、兄は大学を中退し、十四歳のコナーは金のかからない荒れたカトリック系の学校に転校させられた。おまけに両親の夫婦仲は悪化し、離婚の段取りが話し合われている。
一九八七年に司馬遼太郎アイルランドを旅していて、そのときの体験と思索が「街道をゆく」シリーズ『愛蘭土紀行』に著されている。なかに「ニューズウィーク」(一九八七・十二・十七)にあるアイルランドについての記事が紹介されていて、見出しは「アイルランドから若者がいなくなる日」というもので、サブタイトルには「失業率20%―改善の見込めない不況のなか、過去五年間に七万五千人以上の若者が海外に移住した」「国にとどまれば失業する以外に道はない、手に余る窮状に、政府は移住奨励策さえ打ち出した」とある。
ストレスのたまる学校生活、貧困と両親の不和というなかにあってコナーの楽しみは兄といっしょに見るミュージックビデオであり、レコード蒐集家の兄から聞くロック・ミュージックについての批評だった。
ある日、コナーは街でラフィナ(ルーシー・ボーイント)という素敵な女の子を見かけ、思わず、自分たちのバンドが撮るミュージックビデオに出演してみないかともちかける。大人びた雰囲気を具えた十六歳の彼女はイングランドでモデルをめざしていて、その話は渡りに船だったが、困ったことにコナーにはバンドがなかった。期待と意外の応答に大慌てで仲間を探し、ようやく恰好をつけてビデオ製作をめざすことになったコナーだが、さいわいかれは作詞を続けていて、バンドを編成したことでそれらに曲を付けてくれる仲間ができた。
かれらが生活するダブリン、前にはアイリッシュ海が広がり、その先にはイングランド、それも音楽の聖地リヴァプールがある。この海を越えられるかどうかはひとえにみずからの音楽活動にかかっている。こうしてジョン・カーニー監督(「ONCE ダブリンの街角で」)の半自伝的作品は八十年代のブリティシュサウンドを背景とする恋と友情と音楽をめぐる優れたドラマである。
音楽がこの映画に大きな魅力を添えているのは言うまでもないが、とりわけ空席だらけのコンサート会場でコナーが、父母を含む客たちのダンスを幻に視るシーンの高揚はこの監督のミュージカルのセンスの冴えを感じさせた。
と書いたうえで、映画の主題からいささかずれてしまうのだが、それでもわたしは、アイルランド共和国の国民であるコナーたちがイギリスをどんなふうに意識していたのかの問題を思わざるをえない。
なにしろ第一次大戦のさなか「ライアンの娘」でアイルランドの人々はイギリスの敗北さえ願っていた。それほどまでにイギリスがアイルランドにもたらした災厄は大きかった。
アイルランド短篇選』(岩波文庫)「序にかえて」に編訳者橋本槇秬氏が見た「俺たちの考えるヨーロッパ地図」の話がある。橋本氏が泊まったアイルランドのホテル近くにあるパブの壁に貼られていたその地図はブリテン島がすっぽりと消えて、アイルランドヨーロッパ大陸のあいだは「アイリッシュ・シー」と黒々と書かれていた。文章の日付は二000年六月だから先のイギリスのEU離脱国民投票を承けたものではない。橋本氏は「俺たちはブリテンなしでもEUの一員として立派にやっていけるのだという気概をみごとに表した地図」「イギリス人は一本取られた。私もアイリッシュ・ユーモアに脱帽した」と書いているが、現在の事態はこれがユーモアでなくなっている。
さきほどこの映画の背景として八十年代のブリティシュサウンドを挙げたけれど、これにイギリスと北アイルランドアイルランド共和国の関係をくわえるのは野暮に過ぎるだろうか。ファンタジーと普遍性をもつ音楽の前ではこの問題はどこかへ追いやられるのか。それともコナーたちは、いたずらに過去にこだわる姿勢は排して、イギリスを自分たちの音楽を生む希望の地と考えていたのだろうか。
(七月十一日ヒューマントラストシネマ有楽町)