豊洲市場問題私見

二0一五年のイングリッド・バーグマン生誕百周年を記念したドキュメンタリー作品「イングリッド・バーグマン 愛に生きた女優」を観て、その夜、バーグマンとアラン・バージェスによる『イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』を手にした。一九八0年刊行の原書を八二年に新潮社が訳書として出したときはずいぶん身を入れて読んだものだった。それからあとは上下二段組み六百頁の大冊を拾い読みはしても通読することはなかったが、映画に刺激されて三十余年ぶりに再読に及んだ。

本書に一九四九年の「山羊座の下で」の撮影中、バーグマンが親友のルース・ロバーツ(バーグマンがはじめてハリウッドへ渡ったときの語学コーチ)に送った手紙が収められていて、なかに「わたしの登場シーンのことですでに一度ちょっとした議論をしましたけど、このときはわたしが勝ちました」「彼と議論すればかならず勝てる自信があるけど、議論は嫌いです」とある。
文中の「彼」は「山羊座の下で」のアルフレッド・ヒッチコック監督。
「わたしが勝ちました」というバーグマンに対しヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーとの対談『映画術』で、撮影方式が気に入らないとしょっちゅう文句を言って追求するバーグマンと議論をしてもはじまらないと思ったから、彼女には「イングリッド、たかが映画じゃないか」と言ってやったと語っている。
「たかが映画じゃないか」をバーグマンの側から見るとうえの手紙になるわけで、彼女のきまじめでひたむきな人柄がよく示されている。
年代は前後するが、バーグマンが渡米する前、スウェーデン・フィルムに所属していたころ、彼女は「だんだんよくなる女史」と呼ばれていた。一シーン撮りおえると必ずといってよいほど「あとになるほどだんだんよくなったと思うんだけど」と言っていたために彼女のあだ名になった。
映画デビューの前、はじめてスクリーンテストを受けたときも「テストの結果はあまりよくなかったでしょう」「もう少しやらしてもらえたら、だんだんよくなったと思うんですけど」と言っていた。
ヒッチコックはバーグマンのことを「立派なことばかりやろうとして、ひとつうまくいくと、こんどはもっと立派なことをやろうとする」から際限がなく、とうとう「たかが映画じゃないか」と口にしたのだったが、このエピソードの芽はすでにスウェーデン時代にあったわけだ。
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ベトナムから帰国した翌朝、旅の備忘のために写真とそれに付けるコメントを整理しておこうとしたが、新聞に小池東京都知事と石原元知事との会談がキャンセルされたと大きく報じられているのを見て、よし、ここで豊洲について考えをまとめておこうという気持になった。いつもながらの一言いいたい症候群である。
丹念に報道を追っているわけではないと断ったうえで言うと、ジャーナリズムは豊洲市場の建物に盛り土をする既定方針がいつ、誰によって覆されたのかという問題を熱心に追及しているが、その前段として盛り土のない建物が公文書のうえでどうなっているのかがはっきりしないのがわたしにはもどかしい。
ここが明らかになればいまある建物の建設を最終的に決裁したのが誰かがわかる。市場長それとも副知事あるいは知事、いずれにせよ最後に押印して決裁した方に責任はある。すくなくとも形式上では。
市場の設計案についてわたしがイメージする文書の流れを述べてみる。
まず所管する課に建設会社と設計案について連絡調整をする担当職員が配置される。協議のうえ設計案が決定をみれば職員は起案し、係長とか班長とか直属の上司の精査のうえ課長の決済印を受ける。
課長が最終の決裁権者ならば文書事務はここで終わる。もちろん事業により他の課長や課長以上の部局長さらに上の副知事や知事の決済印を受けなければならないばあいもある。
報道記事を読む限りこうした公文書の流れがはっきりしない。情報公開制度を活用してなお不明というのであれば公文書の廃棄や秘匿が考えられ、文書管理規則の違反につながる。そうなると刑事上の問題に発展する可能性が出てくる。
役所は良くも悪くもハンコ社会で、公文書の流れを見ればすくなくとも形式上の責任者は明らかとなる。形式上というのは課長までは精査してもそこから上は押印するだけで済ましているかもしれないからである。
豊洲市場のプロジェクトの重要性から考えて盛り土のない建物を決裁したのはおそらく知事だろう。既定方針とは異なる建物となるのを知事が承知していなかったとすればいわゆる「メクラ判」(御免)を押したことになる。
もしも市場長や部局長など都の職員が決裁権者であれば懲戒処分は免れないし、退職者であれば退職金の返還を求めてよい事態である。
もちろん盛り土のない建設について決裁権者がわけもわからず押印したというのはあくまで善意の解釈であり、もしかするとカネをめぐる深い事情だってあるのかもしれない。「空気」でなんとなくそうなったというのは事実の糊塗にすぎない。
都議会が百条委員会を設けて真相究明に乗り出して当然である状況にもかかわらず、いまのところそうした動きはないのはやる気のなさが疑われてもしかたがない。
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この夏Amazonビデオで「ダウントンアビー」シーズン1〜4を観た。(シーズ5と最終シーズン6はすでにスターチャンネルで放映済みだが残念ながらわが家は契約をしていない)
起伏に富んだというか富みすぎるほどのドラマで、見ようによっては貴族と使用人を問わず、慇懃という仮面をかぶった腹黒たちの群像劇である。いっぽうで狡猾と陰険を繰り返しながらも破綻はきたさないのだからイギリス人の知恵やバランス感覚も感じた。
「英国人は激情に身をまかせるよりもバランスというものを考えるらしいが、多くのアイルランド人にとって、物事は平衡の上にきわどく成立しているという英国的な思想は、他人のもののようである」と司馬遼太郎が『愛蘭土紀行』に書いている。アイルランドは別格としてもわたしのイギリスのイメージは司馬さんの記述と重なるのだが、EU離脱関連の報道でこれまで知らなかった国情を知り、イメージはずいぶんと揺らいでいる。
それはともかくバランス重視のイングランドにたいし司馬さんはアイルランドについて「感情のするどい傾斜に魅力がある」と述べ、その典型として、ハリウッド映画の主人公であるスカーレット・オハラとダーティ・ハリーを挙げている。どちらも組織感覚がなく、統治されるのを嫌い、不撓不屈を貫く。
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ハノイとその近辺を観光するツアーに参加した。ホテルで食事をしながら団塊の世代組が「あのころ、ときどきベ平連のデモに参加してベトナム戦争反対を叫んでいました」 「わたしも同様です。どうしてアメリカがわざわざ出張ってくるのかと思っていましたから」「ベトナムだけではなくて激動の世界でしたね。受験生だったから東大と東京教育大(現筑波大)の入試がなくなったのは驚きと不安でした」といった会話をしていたところ、おなじテーブルの若い女性から「入試がないって、みんなが入学できたというのじゃないですよね」とご質問があった。ある方が「学生運動が激しかったために全員が卒業できず、入学試験が取りやめになったんです」と説明しておわかりいただけたが、一連のやりとりでベトナムは日本の世代論と深くかかわる国と実感した。
帰国して開高健ベトナムに関する作品集のカスタマーレビュー(Amazon)を見ていると「2014年現在、60歳以上の日本人にとって、ベトナム戦争の記憶は、のどに刺さって、いつまでも取れない魚の骨のようなもの」「今の若い人は、リゾート気分でベトナム観光に何のわだかまりも無く行ける」とあった。
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十月二十日の昼、ネットで平尾誠二氏の訃報を知った。わたしには「えっ」と声をあげたほど思いもよらないニュースだったが、ネット上ではこの四月に講演をしている氏の姿が痛々しいくらいやせていて一部で深刻な病気かもしれないと話題になっていたそうだ。
一九八九年の対スコットランド戦、一九九一年の第二回ラグビーワールドカップにおける対ジンバブエ戦、いずれの勝利も監督宿沢広朗、主将平尾誠二が率いたジャパンの歴史的快挙だった。その立役者が五十五歳と五十三歳の若さで亡くなった。
平尾誠二同志社の学生だったとき、関西へ出張があり折よく皇子山陸上競技場同志社立命館を観戦した。秋晴れの一日、芝生に腰をおろして見ていると近くで五、六人のおばちゃんたちが話に興じながら応援していて、どうやら同志社の選手のお母さんたちのようだった。なかに「平尾さん」と呼ばれていた方がいた。
自国開催のラグビーワールドカップを前にしての死去は平尾誠二本人の無念はもとより、日本ラグビー界にとって大きな損失である。木本建治、洞口孝治、石塚武生、宿沢広朗上田昭夫そして平尾誠二。いずれも若くして逝った名選手、名将たち。ご冥福を祈りながら、どうしてこんなことに!?と思う。
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アメリカ人は切った首を見てイヤな顔をします。話を聞いても顔をしかめるのがいます。けれど、これは私にいわせると偽善ですよ」。
いまのISの残虐のことをいっていると思われるかもしれないが、開高健福田恆存氏への反論」にあるベトナムの一知識人の言葉だからおよそ半世紀前の発言である。

語り手はさらに「ネイバーム一発でどれだけの人間が死ぬと思いますか。その残酷さから目をそむけて切った首に顔をしかめるのはまったく矛盾ではありませんか。私はVCもイヤだし、アメリカもイヤだ。戦争をするとすべての人間の手が汚れます」「私たちだってけっしていいことだとは思っていません。けっして、けっして、そう思ってはいません。しかし、テロは弱者の武器なのです。そしてこれはあくまでも戦争の一部であって別のものではありません」と述べている。なおVCは南ベトナム民族解放戦線のこと。当時ベトコンと呼ばれた。
VCはジャングルのなかでゲリラ戦を展開しており、敵の所在がわからない米軍はジャングルを焦土とすれば敵が見えると枯葉剤の散布に踏み切った。枯葉剤にはダイオキシンが含まれていたためにこれを浴びたベトナム国民と米軍兵士が後遺症に悩まされた。先日ハノイの織物工場を訪れたとき、枯葉剤の被害に遭った数人の女性が作業に従事している姿を見て心が痛んだ。
首切りは残虐だが、これとネイバーム(ナパーム弾)や枯葉剤とを相対比較する目は忘れてはならない。