ラグビー・ワールドカップとジョナ・ロムー氏の死去

九月に歌舞伎座へ来た折り、来月のプログラムは何かなと見たところ「文七元結」とあり、余計なことするのじゃなかったと思ったがもう遅い。慣れ親しんだ古典落語の舞台をパスするのは無理というもので、帰りがけ年金老人は財布を気にしながらチケットをゲットした。というわけで十月公演初日の歌舞伎座へ行った。

朝食のあとTBS落語研究会での古今亭志ん朝師匠「文七元結」をDVDで視聴、昼食のあと同名の芝居を見るという人情噺の一日である。主なキャストは左官長兵衛に菊五郎、和泉屋手代文七に梅枝、吉原の角海老女将お駒に玉三郎といったところ。
文七が武家の屋敷へ忘れた金は歌舞伎では五十両、古今亭の噺では百両、お久が身売りに行く吉原の大店が、歌舞伎では角海老、落語では佐野槌といった細部の違いがある。
時間の関係かもしれないが舞台で和泉屋が吉原の大見世と長兵衛の家を探しあてる経過がはしょられているのが惜しい。落語では「なにしろ吉原がどこにあるんだか、方角の見当がつきません」と言っていた番頭さんが、文七があいまいな記憶をたどりながら「たしか吉原の、さのなんとかというお店でした」と言うと、思わず「佐野槌かっ!」と叫ぶ。
余談ながら『昭和戦前傑作落語全集』に五代目三遊亭圓生「恩愛五十両』という噺があり、浪曲か講談のような外題となっているが内容は「文七元結」にほかならない。昔の本だからルビが多く、元結屋、文七元結には「もとゆいや」「ぶんしちもとゆい」とある。これが『志ん朝の落語』では「このお久と文七が一緒になりまして、後に至って麹町に元結屋(もっといや)の店を出したと申します。『文七元結』(ぶんしちもっとい)の一席でございました」となる。
「もっとい」で慣れ親しんでいるからどうも「もとゆい」では気分が出ない。気になるのは「恩愛五十両」の演者五代目圓生が作者三遊亭圓朝の直系に当たる点で、圓生は「圓朝の衣鉢を継ぐ三遊亭一朝老人から五世円生に伝えられた」と『昭和戦前傑作落語全集』巻末解説にある。ひょっとするとこの噺、はじめは「もとゆい」だったのだろうか。単純な疑問として書きとめておくしだい。
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さきごろリーアム・ニーソン主演の「誘拐の掟」を観たので、よい機会に原作も読んでおこうとローレンス・ブロック『獣たちの墓』を手にした。これまでマッド・スカダーのシリーズは四五冊読んだに過ぎないが、いずれも粒揃いの作品でハズレはない。

ダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドをハードボイルド小説のクリーンナップとすればブロックはその前後を固める職人的な上手さを持つバッターといったところか。
「私たちはエレインのアパートメントに戻った。互いの好みのシダー・ウォルトンのソロ・ピアノ・アルバムを彼女がかけ、私たちはソファに坐った」。ここを読んだところでわたしも今宵はしばらくご無沙汰だったピアニストのアルバム「ソング・オブ・デライラ」を聴いた。
ベッドインの前にシダー・ウォルトンのアルバムを聴いたマット・スカダーとエレインだが、そのウォルトンについて村上春樹が『意味がなければスイングはない』で「真摯で誠実な、気骨のあるマイナー・ポエト」「自然で強靭な文体を持った誠実なマイナー・ポエト」と述べている。ローレンス・ブロックもこんなところが好きなのかな。
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中島貞夫監督「日本暗殺秘録」を観た。小沼正による前蔵相井上準之助の殺害(血盟団事件、昭和七年)や相沢三郎陸軍中佐による永田鉄山陸軍省軍務局長の殺害(昭和十年)、翌年の二二六事件などが扱われている。
特典メニューのデモンストレーション映像には小沼正本人が撮影所にやって来たシーンがあり、おどろきだった。
その小沼正には千葉真一、師井上日召片岡千恵蔵が扮している。山平重樹『高倉健任侠映画』によると監督ははじめ井上日召役に三國連太郎をあてようとしたが、岡田茂社長に「三國連太郎ではダメだ。他の役者に代えろ」と一蹴された。また同書には東映のシャシンは三國連太郎では客が入らないとのジンクスがあったとある。「仁義なき戦い」で深作欣二監督が山守親分に三國連太郎を提案したときも岡田社長は「あいつは暗い。僕が言う役者にしろ。金子信雄を推薦する」「金子信雄じゃなかったら降りろ」と反対している。
中島監督はある人に「東映というのはひどい会社だ。任侠映画をやって、次は任侠を笑いとばして、今度は実録路線をやってーと、ヤクザを徹底的に食い物にしてるな。ヤクザ以上だな」と言われたそうで三國連太郎はヤクザを食い物にするには何かが足らなかったのか、それとも何かが邪魔していたのか。
当方の思い込みかもしれないが相沢中佐役の高倉健軍刀さばきが任侠映画のドスのそれに見えてみょうにおかしかった。
二二六事件では叛乱将校が革命成就を叫んでいた。当時革命なる用語は左翼とともに右翼も積極的に使っていた。また戦時統制経済の実現を図った官僚層は革新官僚と呼ばれていた。右と左の全体主義という観点では血盟団は右の赤軍派と見えた。
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ラグビー・ワールドカップイングランド大会はニュージーランドの連覇で幕を閉じた。
開催国が決勝トーナメントに残れず、ベスト4に勝ち進んだのがニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチンの南半球四か国、いずれもWC史上はじめてのことで、わたしはアイルランドがアルゼンチンに勝って残るだろうと予想したが結果はアルゼンチンの快勝だった。これからの南北格差の行方を注視したい。
ジャパンは三勝一敗で闘いを終えた。予選リーグで三勝しながら決勝トーナメントに進めなかったチームはこれまでなく、これもWC史上初の出来事となった。一次リーグを突破できなかったなかでは最強となったチームを讃えるとともに、次回東京大会は開催国がベスト8に残れるよう期待したい。
早明戦で国立競技場が満杯になった頃を知る者にとってはその後のラグビー人気の翳りが残念でならなかった。また仕事でラグビーに関係していたから、花園での全国大会に向けての都道府県予選におけるチーム数と高校生の部員の減少は将来の不安材料として気になっていた。振興策はどうすればよいのかまでは思い至らなかったけれど。
今回初戦の南アフリカに勝ったことで、マスコミの扱いは急変というほど大きくなった。考えてみると振興策は単純明快だった。まずは何よりもナショナルチームの勝利と活躍に尽きる。それが如実に理解できた今回のWCだった。
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十一月十八日ラグビー界のスーパースター、ジョナ・ロムー氏が四十歳の若さで亡くなった。腎臓を患い、二00四年に移植手術を受けたが、プロスポーツ選手を続けるのは断念しなければならなかった。
といっても今回のイングランド大会のプロモーション活動や次回東京大会の親善大使を務めるなどしていたから唐突感は否めず、あまりに早い死に驚きを禁じえない。オールブラックスの歴史において、いやラグビー史上最強のウィングだったと言ってまちがいないだろう。クリント・イーストウッド監督「インビクタス」でも採りあげられたWC南ア大会での対イングランド戦での勇姿はラグビー史上のレジェンドとなった。
二00一年八月に家族四人でニュージーランドオークランドへ旅行をした。南半球ではラグビーシーズン真っ盛り、わたしたちのお目当てもイーデンパークで行われるニュージーランド南アフリカとのテストマッチで、前日朝食のホールに行くと早くも南アのジャージを着たサポーターが何人もいて盛り上がりを体感した。
テストマッチの前夜か前前夜だった、ホテルのバーで飲んでいるとロムー選手がやって来て誰かを探していたのだろう、すこしして出て行ったが、間近で見られた感激に心は昂ぶった。
オールブラックスで、そのころノース・ハーバーでプレイしていたフラノ・ボティカ選手にわたしたち家族といっしょに写真を撮っていただいたのもうれしい思い出だ。
ロムー選手がオールブラックスの代表を終えたのは翌年だった。
ご冥福をお祈りしたい。
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退職した二0一一年にはじめてパリを訪れ、短期間でよいからここで生活してみたいと思った。けれど不測のことなどあれこれ考えるとなかなか踏ん切りがつかない。家族は行くのなら歳をとらないうちに早く、と言う。
先月オランダ、ベルギーのいくつかの都市とパリを旅した。ヴェネツィアプラハなどお好みの都市はいくつかあるけれど、いろいろ条件を勘案してヨーロッパに短期間滞在するならやはりパリだ。

シテ島やサンジェルマンデュプレ、シャンゼリゼなどを歩くうちに自信がついたのではないが、二、三週間だったらなんとかなりそうな気がするようになった。これが十月の二十四、二十五日で、翌日帰国の航空機に乗った。そして十一月十三日にテロが起きた。自分がこの日パリ散歩をしていてもおかしくはない。
先日パリで数ヶ月生活した経験のあるOさんに住居や経費のことなどについて話をお聞きした。事前に彼女から、パリ、大変なことになっていますねとのメールが届いた。テロ事件以前に約束していたから、行く気が失せたのを懸念したのかもしれない。
当夜はテロとパリ生活について話をした。たいへんな状態にあるが、やはりパリへ行きたい。自由平等友愛の底力を信じて。