「アルバート氏の人生」

一八六0年にイングランドで起きたロード・ヒル・ハウス事件のケント家には主人のサミュエルと前妻メアリ・アン・ウィンダスとのあいだに生まれた四人の子供がいた。ケイト・サマースケイル『最初の刑事』にはこの四人のうちともに十代の次女と長男に家出経験があり、その動機は「男性に変装し、死ぬまで女性だとばれずに働き続けた女性たち」の話を読んだことにあったと書かれている。複雑な家庭環境にある姉弟の家出は姉の主導によるもので、彼女は性を偽ってでも働いて自立した生活を送った女性がいたことに一縷の希望を抱いたのかもしれない。
折よく、独身女性が独り立ちして生きることが困難だった十九世紀アイルランドのダブリンで性を偽り男性として生きる道を選んだ女性アルバート・ノッブスの生涯を描いたロドリゴ・ガルシア監督「アルバート氏の人生」が上映されているのでさっそく観てきた。

十九世紀のアイルランドは長きにわたり極度の貧窮状態にあった。飢饉の発生した直後の一八五一年に行われた調査での人口は六百五十万人あまりで、その数字は十年間でほぼ百五十万人が亡くなったことを示していた。
このような社会環境にあってアルバート・ノッブスは若くして両親を亡くし、一人で生きていかねばならなかった。やむなく女性であることを隠してホテルのウェイターに応募したところ採用され、以後男性として働きつづけた。ダブリンのスラムにとどまって生活すれば娼婦になるしかなかったとの事情も言外にうかがわれた。
映画はアルバート氏の数奇な人生のなかにある哀しみ、せつなさ、よろこびが、そして十九世紀のアイルランドの生活感がよく描出されている。この人が実在していたのかどうか、映画の原作があるのかどうかがいまのところ不明なのが残念だが、おそらくモデルとなる人物はいたのではないかと推測している。そのモデルが亡くなったあと報道され、それを『最初の刑事』のケント家の子供たちが読んで家出に及んだというのがわたしの想像である。
アルバート氏に扮したのは「危険な情事」でマイケル・ダグラス相手にストーカー女性の狂気を演じたグレン・クローズ。この名女優はアルバート氏に惚れ込んだのだろうプロデューサーの一人としても名を連ねている。
ことのついでに書いておくと彼女がノーマ・デズモンドに扮した「サンセット大通り」舞台版ミュージカルをブロードウェイの舞台でぜひと願っている。叶わなければせめて録画で鑑賞したいものだ。
(一月二十一日TOHOシネマズシャンテ)