牧野伸顕『回顧録』を読む

一九四六年(昭和二十一年)春、牧野伸顕は孫で作家の吉田健一、その友人で文芸評論家の中村光夫、吉田の従兄である伊集院清三を相手として回想談をはじめた。企画は志賀直哉の強い勧めによるものだった。回想談は一九四九年一月二十五日牧野が八十七歳で歿したため終わったが、遺された明治維新からベルサイユ講和会議にかけての口述が吉田健一により起稿され『回顧録』となった。わたしが読んだのは中公文庫版で、凛として、風格のある文章で綴られた充実の内容、そして巻末には牧野の甥で歴史家大久保利謙による丹念で貴重な年譜と索引が付く。史書の模範とするに足る書だが、それゆえに歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直したのが余計に惜しまれる。

一八六一年(文久元年)大久保利通の次男として薩摩に誕生した伸顕は、生後間もなく一族の牧野吉之丞の養子となり牧野姓となった。ただし一八六三年吉之丞が新潟で戦死したため名字は牧野のまま大久保家で育った。
一八七一年(明治四年)十一歳で父、兄とともに岩倉遣欧使節団に加わり渡米し、フィラデルフィアの学校を経て、一八七四年十四歳で帰国した。その年の暮に牧野は墓参のため帰郷し、母と末弟を連れて東京へ帰った。家族は利通が東京に出てもお役目がすめばすぐに帰郷すると思っていたから郷里に残っていたのだった。維新後、大久保利通が参議や内務卿等の重職に就いたのは後付けの知識であり、歴史の現場では予想はつかない。
一八八九年(明治二十二年)二月十一日大日本帝国憲法が発布され、黒田清隆首相の秘書官だった牧野は宮中での儀式参列を許された。その途中、森有礼文部大臣が宮城に向かう直前に暗殺されたとの知らせが届いた。森は牧野がロンドンで公使館の書記生だったときの公使で、以来親しくなり、式の前夜も二人は文部大臣官舎で遅くまで話をしていた。宮中を退出した牧野は急いで森を訪ねたがすでに絶命していた。暗殺で父を失い、くわえて敬愛する先輩であり親友が凶刀に倒れてしまったのである。
同年十月十八日黒田清隆内閣の外相大隈重信が条約改正をめぐり玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾で襲撃され右脚を切断した。この日、牧野の長女雪子は肺炎で重体の床にあった。牧野は主治医高木兼寛の来診を待っていたが、なかなか来ない。すると突然爆音が聞こえた。そのときは特に気にとめなかったが、しばらくしてようやく高木博士が見えて、往診が遅れたのは、先ほどの爆音、つまり大隈外相が霞が関の外相官舎で遭難したためと知れた。このとき重体だった幼児の雪子がのちに吉田茂の妻、吉田健一の母となった人だ。
いずれも歴史のライヴ中継のようであり、その記述は具体的で活き活きとしている。自身の体験、見聞と日本の政界、国際政治の動向を交叉させながら語られた『回顧録』はこれまで未読だったことが悔やまれるほどの魅力を具えていた。日本の近代史を体験と回想とともに語った著作は多いが、これほどの語り手は稀有なのではないか。
米国から帰朝した牧野は開成学校を経て十六歳で新設の東京大学に入学、選んだ学科は和漢文学科で、洋学に比し和漢の知識を欠くからとの判断だった。時代が生んだ早熟、そして理想的と思える和漢洋の均衡のとれた知識人の形成だった。このときの牧野の行動について吉田健一は「外国で外国の学問をして、日本に帰つて来て漢文をやるのは、考へて見れば当り前なことであるが、当り前な処置をそれが当り前だから取るのは牧野の場合、全く性格的であつて、この一種の、そこまで行けば叡智と言つていいものに従つて行動するのを彼は一生止めなかつた」と述べて、牧野の行動規範の表れと捉えている。
一八七九年(明治十二年)牧野は大学を中退して外務省に入省しロンドン大使館に赴任した。以後、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨木県知事を務めたあと、井上毅西園寺公望の二人の文相のもとで次官の職にあった。次いで小村寿太郎外相からイタリア公使の話があり、イタリアに赴任し、さらにオーストリア公使に就いた。牧野の実力が窺われる履歴であり、また当時の役人の人事はずいぶん柔軟で、実力本位の方針が示されているようでもある。

一九0六年(明治四十六年)帰朝した牧野は文部大臣に就任し、以後、農商務大臣、宮内大臣等を歴任、一九二五年(大正十四年)には内大臣に転じ、一九三五年(昭和十年)まで在任した。満洲事変、国際連盟脱退、天皇機関説事件とつづく時代は七十五歳の牧野に「叡智と言つていいものに従つて行動する」ことの困難を感じさせていた。そうしたなかでの退任に、牧野への信頼厚かった昭和天皇は涙を流したと伝えられる。
牧野が生涯のテーマとしたのは若き日に理解した欧米のデモクラシーと文化を東洋の君主制の国にいかにして根付かせ開花させるかということではなかったかと思う。その意図はある時点までは成功するかに見えたけれど、だんだんと時代との齟齬をきたすようになった。「牧野さんと、牧野さんが生きてゐる時代の食ひ違いは、満州事変が始つた頃から急に目立つやうになつた」(吉田健一)のである。敗戦後、牧野は維新以来八十年間の努力が水泡に帰したと語っているが、その要因として『回顧録』には、国際事情に疎く、代議政体の実施に関わらず政治上の関心に難があったことの指摘がある。
牧野の生涯と近代日本の発展の歴史は一体としてあったと言いうるほど密接に関係していた。しかしその一体感は戦時体制が進むとともに失われていった。時代は変ったが、それでも牧野の生き方と信念は変わらなかった。吉田健一は牧野の生き方の根本に「叡智と言つていいものに従つて行動する」「常識に徹するといふ平凡な覚悟が(中略)最後まで牧野さんを支えていた」という点を見ている。『回顧録』に見られる合理的な思考や理非曲直のありよう、精彩に富む語り口、自由闊達で説得力のある立論はこうした牧野の生き方と信念ががもたらしたものだった。
結びとして「常識に徹するといふ平凡な覚悟」を持った牧野の一面を記しておこう。
牧野は第一次西園寺内閣で文部大臣を務めた。その頃を振り返り、文部省は行政官庁ではあるが仕事の性質上俗務を離れて教育に関する精神的なことにわたる場合が多く、相手は大学の総長をはじめ校長や教授で、そういう人たちとの交渉は修養にもなり、他の役所と違った意味で自分のためになることがある、いろいろと教えられたと語る。
勤め先がいずれであれ健全な社会常識を身につけるのは当然で、その上で言えばそれぞれに発想、考え方、気風等は異なるし、いっしょでは困る場面もある。しかしながら学校のばあいその相違はしばしば、学校の常識は世間の非常識と批判を浴びてきた。修正すべきはしなければならないが、なかには学校に対するあまりに非寛容な姿勢を説く言説もあるようだ。それに較べると上の話には滋味と見識がある。
参考文献
吉田健一「逢莱山荘」「晩年の牧野伸顕」(『三文紳士』所収)
同「牧野伸顕」(『日本に就て』所収)
同「牧野伸顕」(『交遊録』所収)