『大日本帝国の興亡』を読みながら

リディア・ケイン、ネイト・ピーターセン『世にも危険な医療の世界史』(福井久美子訳文藝春秋)という本の書評に歴史家の磯田道史氏が「本当の医療の歴史は、試行錯誤と失敗の歴史であった。とんでもない『インチキ療法』が、とめどなく開発される。悲しいことに、人はそれを信じる。『生きたい』と切に思うから、その人体実験に参加せざるを得なかった。そして、死体の山が築かれ、結果として、比較的、害が少なく、効果のある『療法』が発見されて、それが生き残り、今日の医学体系となっている」と書いていた。

新型コロナウイルスについても詐欺や悪質商法に注意するよう警察や厚労省自治体等が警告を発していて、マスクや消毒液が不足すればそこに付け込んだ手口が使われ、給付金が話題になれば騙しとろうとする連中が出没する。いずれ感染が落ち着いたら新たなインチキ療法やトンデモ話、異聞奇譚を読んでみたい。

そこで比較的、害が少なく、効果のあるほうの話になる。感染症対策の切り札であるワクチン接種にも少数ながらトラブルはあり、接種への不安や疑問はないわけではない。けれど、退職してから毎年行っていた海外旅行が二0一九年の暮れにマルタ共和国へ旅行したあと途絶えたままで、早く海外へ行きたいなら接種はしないの選択はありえない。ワクチンの普及により海外旅行ができる日が来るよう期待している。          

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濵田研吾『俳優と戦争と活字』(ちくま文庫)を読んでいる。著者が博捜した役者たちの十五年戦争についての記録や回想を紹介また考察した好著で、読みながら一九五0年 (昭和二十五年)生まれのわたしは米穀通帳やラジオのたずね人の時間をなつかしんだり、思い出の人びとの生没年をみながらあれこれ感慨にふけっている。

宮口精二(一九一三~一九八五)、享年七十二、いまのわたしとさほど変わらないじゃないか。

浪花千栄子(一九0七~一九七三)、加東大介(一九一一~一九七五)はもっと長生きしていると思っていたのに六十代で亡くなっていたのか。 

わたしは浪花千栄子花菱アチャコのラジオドラマ「お父さんはお人好し」をリアルタイムで聞いているのだからもう古老だな。 

千秋実(一九一一~一九九九)は加東大介とおなじ年の生まれだったのか、加藤が亡くなった年に千秋は脳内出血で倒れ、懸命のリハビリで再起したんだ、などなど。

むかし、わたしと妻、小学生の子供二人で「七人の侍」をみたときのこと、日本映画最高傑作のひとつをぜひという両親の教育的配慮だったのに、映画館を出ると子供が、七人の見分けがつかない、みんなおんなじなどという。宮口精二千秋実加東大介との区別がつかない!わが子ながらこの人たちとこれから長くつきあうのかとため息を洩らしそうになったが、いまはアイドルと呼ばれる人たちがみんなおなじで見分けがつかない自分がいる。

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濵田研吾『俳優と戦争と活字』に写真集『女優 山田五十鈴』が取り上げられている。

「二0一八(平成三十)年三月、山田五十鈴(1917~2012)の七回忌を兼ねて、写真集『女優 山田五十鈴』(集英社インターナショナル)が自費出版された。責任編集の美馬勇作は、高知の呉服店『ごふく美馬』の主人である。A4版上製、四百十六ページ、限定千二百部で、定価は八千円(税別)」

「中学を卒業するころ、便箋十三枚におよぶファンレターを出した。数日後、マネージャーの代筆で返事が届く。上京した美馬は、舞台『三味線お千代』(東京宝塚劇場、一九八六年)を観劇し、楽屋を訪ねた。高校一年生のときだ。それから山田がなくなるまでの三十二年間、『山田先生』と呼び、慕った」。

写真集の編者美馬勇作氏と面識はないが氏と山田五十鈴の話は氏の伯父にあたる美馬敏男氏からお聞きしていた。氏はわたしが尊敬しまたお世話になった方で、亡くなって四半世紀余が経つからずいぶんまえのことだ。『俳優と戦争と活字』であのときの話がいま『女優 山田五十鈴』に実を結んだと知った。

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政治家の会食をめぐる問題が噴出している。国会では歴代総務大臣総務省幹部と接待する側のNTTや東北新社との会食が問題となっているが、精査すれば他の省庁にも飛び火するのではないか。

こうした問題になると決まって、酒が入らないと忌憚のない意見交換ができないなどという輩が登場するけれど、それよりも酒と料理は癒着のカナメとするほうがはるかに納得できる。意見交換は勤務時間にやればよろしい。大人数の政治資金パーティーから、接待という名の少人数の会食まで政治と酒食をめぐる話題はまことに不愉快である。

仕事に酒料理を絡めるな、会食での話はオフィスで十分、誘うほうも誘われるほうもいい加減にせよ。それでも大臣規範や公務員倫理にこだわっていてはタダで美味しいご馳走にありつけない、バレたらそのときのこと、会費を後払いして、問題なしと開き直って恬として恥じないのは下賤の極みである。

「風俗時勢の新旧を問はず宴会といふものほど迷惑千万なるはなし同じく飲む酒も親しき友二三人と騒がしからぬ旗亭に対酌すれば夜廻の打つ拍子木にもう火をおとしますと女中が知らせを恨むほどなるに、百畳にも近き大広間に酔客と芸者の立ちつ座りつする塵煙、灯火に朦々として人の顔さへ見へわかぬが中に、諸君我輩の叫声に耳を掩ひつつ干ものの如き塩焼の肴打眺めて坐する浮世の義理また辛しといふべし。幸田露伴先生宴会の愚劣なるを痛罵して鴆毒なりと言はれし」。(永井荷風「桑中喜語」)

鴆とは猛毒をもつ想像上の鳥で、鴆毒とはその毒をいうのだが、まあ砒素とでも解して差し支えない。酒と料理に毒はなくても宴会を政治の一環に組み込んでいるうちに日本の民主主義の体内へ鴆毒は廻る。

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散歩で団子坂を下りて不忍通りを渡り、谷中の三崎坂をあるいているうちに久しぶりに鈴木春信と笠森お仙の石碑のある大圓寺に寄せていただいた。

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建碑のきっかけは大正八年(一九一九年)に鈴木春信没後百五十年の法要を有志が行おうとしたことで、いろんな経緯ののち大圓寺への設置となった。お仙の碑文は永井荷風が書いていて『断腸亭日乗』大正八年六月十日の記事にみえている。

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「女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとどめて百五十有余年、嬌名今に高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年夏六月滅法鰹のうめい頃荷風小史識」

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お仙の碑文はほとんど読めなくなっていて、石に刻んでも百年経つとさすがにきびしい。 

はじめ荷風は「徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず」としていたが歴史家また俳人だった笹川臨風の勧めで応じた。なお大圓寺の碑文は『断腸亭日乗』のそれとは若干の異同がある。

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笠森お仙はここ谷中の笠森稲荷門前の水茶屋、鍵屋で働いていた看板娘、稲荷のやしろの前にしだれ桜が植わり、大田南畝に「ひもろぎの団子のくしをさしかざせしだれ桜の花のかさもり」がある。

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何年かまえ、吉田健一ワールドを彷徨するうち大久保利通の子息で吉田の祖父の牧野伸顕回顧録』を読み、その勢いであの時代に英米との協調を主張し続けた牧野と西園寺公望という両巨頭についてもっと知りたいと原田熊雄『西園寺公と政局』を読んだ。

西園寺没後の政治史は戦史の比重が増し、戦争の過程にはあまり関心がなくてそのままになっている。いちど大岡昇平『レイテ戦記』にチャレンジしてみたが太平洋戦争の全局をわかっていない者がレイテだけに集中するのは無理があり挫折した。

そうしたことが気になっていたところへことし一月十二日に亡くなった半藤一利氏がジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫全五巻)を薦めていたのを知り、本書で戦争の具体的過程に踏み込み、いま三巻目まで来た。一九七一年度ピュリッツァー賞受賞作。その後の研究で訂正しなければならないところもあるはずだが、執筆にあたり当時在世中の関係者にインタビューをしているのは強みで、日米双方への目配りもよい好著である。

同書第一巻にあったちょっとした文明論。

真珠湾攻撃について「一大奇襲で一気に勝負を決するという概念は、日本人の性格にも深く根ざしている。彼らの愛好する文学形式の一つである俳句は、感覚的イメージと直観的に思い浮かんだことを、わずか十七文字の中に歌いこむ詩の一種である。それは規律に従って表現されるぴりっとした諷刺と、日本的仏教の中で追求されてきた知的ひらめきを特徴としている。同じように、柔道、相撲、剣道の結着も、長い準備的な段階の後、一瞬の攻撃によって決するのである」。

はじめて知る所説で、俳句や相撲を生んだ文明は戦争の作戦にまで影響するらしい。

本書を読了したあかつきには『レイテ戦記』への再チャレンジが待っているかもしれない。

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東日本大震災の年の三月末日で定年退職したからことしは三一一と退職の十年目に当たる。

この日は新型コロナと東日本大震災関連のニュースを併せ見なくてはならず、やりきれなくてチャンネルを変えたくなった。それでも見ているうちに安全神話に凭れてはならない、政治家や電力会社のいうがままになっていてはろくなことにならないとあらためて思ったがテレビでは誰もそんなことはいわない。わたしがまちがっているのかな。

この日の東日本大震災の追悼式の式辞には復興五輪という文言はなく、ネットにはそれを非難する投稿が相当数あった。いいじゃありませんか、めくじら立てなくても。もともとオリンピック・パラリンピックに格好をつけるのに復興をちょいと借りただけで、いまは復興をいうより新型コロナ克服の証のほうが見栄えがすると思っているのだろう。

その新型コロナは変異ウィルスという新しい段階に入りそうな様相だがIOCJOC、政府、東京都のエライさんの方面ではオリパラ開催という主戦論がもっぱらである。これまでの投資になるべく傷が付かないよう、テレビ放映がなくなって違約金を取られては大変で、「仁義なき戦い」の山守親分の曰く「ゼニじゃ、ゼニじゃ」なのである。

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日米開戦にあたりヒトラーは駐ドイツ日本大使大島浩に「もし喧嘩好きの隣人が喧嘩を売れば、いかにおだやかな人でも平和に安住できない」というドイツのことわざを引用し、「貴国は正しい宣戦布告をなされた」と述べ、大いに評価した。(ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』)

ヨーロッパ各国にとってナチスドイツこそ喧嘩好きの隣人にほかならないのに、自国は棚上げにして、ヒトラーは日本にとって米国は喧嘩好きの隣人としたのである。

それから八十年、いまはお隣に喧嘩好きがいて、 日本、フィリピン、ベトナム、インド等に領土的野心をむき出しにし、台湾に軍事的経済的圧力を、香港、新疆ウイグル自治区に暴圧をくわえ、札束とコロナワクチン外交で各国を分断し、まともなことをいっているオーストラリアにむやみな関税を課すなどしている。

こうしたなか三月十八日、十九日、アメリカのバイデン政権と中国の習近平指導部の外交トップによる初めての対面での会談がアラスカ州アンカレジで行われた。さすがにノーテンキなわたしも眉を顰めながら喧嘩好きの隣人の動向を注視せざるをえない。

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断腸亭日乗』昭和十六年一月二十八日。「支那は思ふやうに行かぬ故今度は馬来(マレー)人を征伏せむとする心ならんか。彼方をあらし此方をかじり台所中をあらし廻る老鼠の悪戯にも似たらずや」。

太平洋戦争開戦の年のはじめに、荷風が観察した日本軍の姿であり「彼方をあらし此方をかじり台所中をあらし廻る老鼠」という皮肉な記述は近年の中国共産党の動きを彷彿とさせるが、それはともかくうえの荷風日記の前段には「街頭宣伝の立札このごろ南進とやら太平洋政策とやら言ふ文字を用ゐ出したり」とあり「街頭宣伝」からたちどころに軍部の現状を察している。

そういえば、鉄道の高架下に落書があったりすると荷風にはたいへんなことなんですね、と丸谷才一さんが語っていた。街頭宣伝の立札や高架下の落書は荷風に世相観察と批評をもたらす契機だった。その観察が出入りする浅草の小劇場オペラ館に向けられたとき、荷風は舞台に立つ朝鮮から来た舞踊団に国が公開の場所で朝鮮の言葉を用いたり、歌をうたうことを禁じているのを知り、「米国よ。速やかに起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよ」と書いた。

と、ここまで来てわが身をかえりみれば、あれやこれやの本をかじり、なんだかんだと書き散らしている老爺なのであった。

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ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』に米軍のフィリピン攻略を前にした日本陸軍の内情がしるされている。それによると、南方軍総司令官寺内寿一は米軍がフィリピンの沿岸に到達する前にわが軍の陸上基地の航空機で米国船団の大部分を撃沈できると信じていた。それに対し現場の地上軍指揮官黒田重徳中将は「着想だけでは戦闘できない。言葉では米艦船を沈められない」、彼我の航空兵力差は明らかだから最終的には地上戦での勝利をめざすべきだ、と訴えた。

日本の航空機で米軍上陸を阻止するのはむつかしいと現実的、合理的な議論をした黒田中将だったが「公務の遂行よりもゴルフや読書、個人的な事柄に多くの時間を使っている」という理由で司令官の地位を解任された。寺内総司令官はまっとうな議論を吟味せず、自分に反対する者を追いやったのである。

黒田重徳中将の「着想だけでは戦闘できない。言葉ではアメリカ艦船を沈められない」という的確な戦局観に比較すると「(原発については)私が安全を保証します。状況はコントロールされています」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として東京で五輪・パラリンピックを開催します」はほとんど妄想の部類に属していて、着想、思いつきと根拠のない言葉に五つの輪はさまよっている。

なお寺内寿一は(一八七九~一九四六)は陸軍大臣内閣総理大臣を歴任した寺内正毅(一八五二~一九一九)の長男で親子二代陸軍大臣、また元帥の任にあった。東京府尋常師範学校附属小学校高等科(いまの中学)では永井壯吉、のちの荷風と同級生で、髪を長くのばしていた壯吉を軟弱だとしていじめた人物である。

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三月二十四日。床屋へ行く道すがら上野公園でほとんど満開の桜をみた。

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過日は白山の本念寺で大田南畝の墓に詣でたものだから、桜大好きな南畝は上野の桜を詠んでいるに違いないと帰宅して調べたところ、以下があった。

「しら雲の上野の花をみてしよりけふもあすかに日ぐらしの里」(日暮里)

「しら雲の上野の花のさかりにはしばし心もはるるうれしさ」

「此春は八重に一重をこきまぜていやが上野の花ざかりかな」