「フォックスキャッチャー」

義太夫を語るのが唯一の趣味という大家の旦那だがあまりにも下手なので、店子は誰も聞きに来ない。せめてご馳走をしてご機嫌をとろうと準備をしてもだめ。ならば店の使用人に聞かせようとするがみんな仮病を使って出てこない。おなじみ「寝床」の一席である。
旦那芸もほどほどにしておかないととんでもないことになる。古今亭志ん生の噺では差し向かいで旦那の義太夫を聞いていた番頭が耐えかねて逃げ出すと、旦那は見台を持って語りながら追っかけてきて、進退窮まった番頭は蔵のなかに逃げ込み、旦那は蔵の中に義太夫を語りこみ、パニックになった番頭はその後失踪してしまう。
ことは義太夫に限らない。オーケストラに私財を投じたタニマチがステージでタクトを振りたくなるのは人情としてわかるし、野球だとユニフォームを着てベンチ入りしたくなるだろう。程のよいところで済めばともかく、番頭を失踪させたとなると狂気の旦那芸と化す。
「寝床」を思いあわせながら言えば「フォックスキャッチャー」は卓越したレスリングの選手たちを金と力で支配しようとした狂気のタニマチのテストケースだ。ただしこちらは一九九六年アメリカで起こったデュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンによるオリンピック金メダリスト殺人事件を基にした実録ドラマである。

フォックスキャッチャー」はジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)がソウルオリンピックでの金メダル獲得を目標に結成したレスリングチームで、豊富な資金力により集めた選手たちのなかで核となるのはロサンゼルスオリンピックの金メダリストマーク・シュルツ(チャニング・テイタム)だ。
アメリカでのレスリングのステータスは低く、おまけにマークは不幸な生い立ちから兄デイブ(マーク・ラファロ)に生活面で依存し、競技面でもおなじ金メダリストの兄にコンプレックスを抱いていた。だからデュポンからの破格の勧誘にマークは豊かさと自立のチャンスをものにしようと飛びついた。
はじめは良好な関係にあった二人だったが、やがてマークはデュポンに不可解や薄気味悪さを覚えるようになり、競技成績もはかばかしくなくなる。
そんなときデュポンはマークの兄デイブを獲得する。弟に話があったときは参加を見合わせていたが、デュポンの申し出は妻子ある彼にとって切実で魅力のあるものだった。
こうして三人の愛憎、欲望、葛藤、鬱憤、嫉妬、執念などが絡む複雑微妙な関係がはじまる。母(ヴァネッサ・レッドグレーブ)の歪んだ愛情のもとで育ったデュポンにはレスリングを媒介にマークが彼に覚えた不可解や薄気味悪さを大きくする因子があったのか、その狂気に兄弟は翻弄され、追い詰められてゆく。
スティーヴ・カレルチャニング・テイタムマーク・ラファロのいびつなトライアングルの世界には不穏な空気と不気味さと緊張が漂い、しかもそれらは加速度的に増していく。大変な力わざだ。
監督は「カポーティ」や「マネー・ボール」のベネット・ミラー。本作と併せいずれも特異な出来事を通じてアメリカの深層を炙り出す描写に目を見張らされる。
(二月十四日角川シネマ有楽町