片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大に唸る

イマジカBSで放送のあった「エイトメン・アウト」を観た。「フィールド・オブ・ドリームス」の前年1988年に制作されているが、こちらは日本の劇場では公開されていない。情報に疎く、不明を羞じるほかないけれど「フィールド・オブ・ドリームス」の影に隠れてこんな秀作があったとはびっくりであり嬉しくもある。
1919年大リーグワールドシリーズでのシカゴ・ホワイトソックスの引き起こした八百長事件を基にファンタジーとした「フィールド・オブ・ドリームス」に対し「エイトメン・アウト」は事実を時間の経過に沿ってドラマ化している。
カネの誘惑に負ける選手たち、どケチな球団経営者、賭けに狂奔するやくざ者をバランスよく描きながらも選手への同情を含んだまなざしがほんのりとした甘さとともにノスタルジックな気分にさせる。大々的に八百長を報道する新聞を売る少年が「シューレス・ジョー」に「嘘だと言ってよ、ジョー」と声をかけるシーンでは泪!
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文藝春秋社で長く編集者、また役員の任にもあった鷲尾洋三の『東京の空東京の土』に「くれなゐの獅子のかうべを持つ童子もんどり打ちてあはれなるかも」という斎藤茂吉の歌を素材に著者が大正の時代に見た角兵衛獅子の光景を語った一文があった。
七つ八つからせいぜい十二くらいまでの子供が親方の打つ太鼓の音にあわせ、もんどり打ったり、逆立ちして歩いてみせる。これを一名越後獅子と呼んだように子供の多くは越後つまり新潟県の出だというが、どうして越後は獅子に扮した子供をたくさん輩出したのか。新潟県出身の体操選手は多いのか。まさかね。
美空ひばりの「越後獅子の歌」は昭和26年公開の松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌だが、当時はまだ越後獅子の門付け芸がなされていたのだろうか。鷲尾洋三は、越後獅子の哀れな流浪の旅すがたも、いつからともなく、わたしたちの視野から消えてしまったと書いている。

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ときどき思い出しては気になっていたロバート・ベア『CIAは何をしていた?』(佐々田雅子訳新潮文庫)を古本屋の均一棚に見つけてホクホクと購入してグイグイと読んだ。ジョージ・クルーニーがCIA中東担当のベテラン諜報員に扮した「シリアナ」の原作本である。
CIAに勤務した時代を振り返ってロバート・ベアはハイテクに依存する危険を指摘する。「写真が建物の内側、あるいは建物に居住している人間の頭の中で何が起きているかを教えてくれるということはあり得ない。それを知るには人間の情報源が必要だ」として空からの偵察写真、電子的な傍受装置への過度の依存を排して「結局、情報というのは人間に集約されるものなのだ」と説く。けれど現実の動きは反対の方向に動いてしまい、9・11の悲惨をもたらしたという。この教訓はいまどれほど活かされているのだろうか?
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晦日にようやくイヴリン・ウォー著、吉田健一訳『ブライヅヘッドふたたび』を読み終えた。本書について訳者は『失われた時を求めて』といろいろな点で直接比較することができると指摘する。思い出の細部に焦点を合わせ、巧みな表現で再構成された「失われた時」。今年こそプルーストに取りかかりたい。
「夕日はその消滅に近づくに従って光と美しさを増し、牧場に長い影を投げ掛け、家の石の壁に真正面から差してこれを豊かな色に変え、窓ガラスに火を点じ、蛇腹や列柱を輝かせ、土と石と木の葉から得られるだけの色と匂いを辺り一面に拡がらせて……」
イヴリン・ウォー吉田健一が一つとなったと感じさせる訳文だ。
「吉田さんがその評論や小説で、というか文章で捉えようとしたのは、もののかたちと色合とを息づまるばかりに浮かびあがらせる夕方の光と、その光に包まれたときの時間感覚ではないかと、ぼくには思える」。この清水徹「夕方の光のなかで」の一節を補助線とすればウォーと吉田健一との渾然一体が見えてくる。
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ブリジッド・バルドーの魅力が炸裂した「殿方ご免あそばせ」を観ているうちマデリーン・ルボーが登場して余計にうれしくなった。「カサブランカ」でボギーに振られたイボンヌ役の女優さんです。

「昨夜はどうしてた」
「そんな昔のことは覚えてないね」
「今夜は」
「そんな先のことはわからない」。
Wikipediaによればマデリーン・ルボーは1923年6月10日生まれ。90歳を超えてご存命だ。「カサブランカ」にクレジットされた役者ではブルガリア人の花嫁役だったジョイ・ペイジか2008年に亡くなったために彼女は最長不倒者となった。いまや無形文化財的存在だ。
カサブランカ」は1942年の作品だから、1923年生まれの彼女はまだ二十歳にもなっていなかったのにとてもそんなふうには見えない。もちろん褒め言葉ですよ。1915年生まれのイングリッド・バーグマンを前に、海千山千は言い過ぎだとしてもよく蓮っ葉な感じを出していた。
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木下順二『本郷』(講談社文芸文庫)を読んだ。もとは1983年に講談社から刊行されていてはや三十年余り経っている。ここでの本郷は昔の本郷区小石川区の地域で、いわば広義の本郷を指す。わたしもここに住んでいるのでかつての姿やいまも残る光景が作者の思いとともに示されて嬉しい一冊となった。
それとは別に巻末の作家案内に「大学卒業後、大学院にすすみ、一九三九年一一月末の入営(病気を称して即日帰郷となる)」「二度目の召集も、病気を称して即日帰郷となった」とあった。木下は旧制五高時にはインターハイ馬術競技にも出場しているが、どうすればこんなふうに兵役をすり抜けられたのだろう。
わが永井荷風先生も徴兵経験を持たない。これには真偽不明ながら官僚だった父親が裏で手を回していたとの説がある。おなじ黒田小学校の後輩黒澤明も兵隊に取られていない。あの偉丈夫がどうしてと不思議でならないが、軍人だった父親が兵隊逃れを図ったとの推論を何かで読んだ覚えがある。
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フィルムセンターことしはじめての企画は「東映時代劇の世界」。さっそくこれまで接する機会のなかった「赤穂浪士」(天の巻・地の巻)を観に行く。1956年、東映創立5周年記念の「オールスター映画で、評価の高さは知っていたものの実見に及んでなるほどと得心した。二時間半いささかの弛みのない面白作品は「ゲイジュツ関係おまへん」の見事な達成である。
クレジットのトップは立花左近役で、出番としてはすくない片岡千恵蔵、ラストに大石内蔵助市川右太衛門が来る。いろいろと気を遣っているんだねえ。
監督は松田定次新藤兼人が脚本を書いている。

討入り以上の圧巻は立花左近の千恵蔵と偽左近の右太衛門、二人の御大が伊豆の三島の本陣で相見える場面だ。討入りのため江戸へ向かう大石は吉良方の目をくらますため、近衛家用人立花左近の名を騙る。そこへ本物の立花左近がやって来て鉢合わせしてしまう。両者は互いに自分が本物と譲らないが、本物の左近がふと棚の文箱に大石家の家紋を見て、自分を騙る男の正体と意図を知り、わたしは偽物と去ってゆく。御大二人が共演するシーンはアップの秒数まで揃えていたと聞くが、その気遣いに応えた出来映えに唸った。
この場面について春日太一氏は『時代劇ベスト100』(光文社新書)で「両者が初めて向かい合うまでのワクワク感、たっぷりと間を使った芝居による沈黙のもたらす重々しい緊張感、心を通わせ合った時に訪れる安心感。二大スターが一つの空間にいる。そのたった一つの事実が、十分足らずの短い場面の間にこれだけの感情を去来させ、観客を満ち足りた気持にしてしまう」と述べその魅力を讃えている。
映画のあとは7階展示室でポスター展「ミュージカル映画の世界」を鑑賞。和田誠、大山恭彦氏の秘蔵コレクションを公開したありがたい企画で、大好きな「バンドワゴン」や「魅惑の巴里」の前ではしばし立ち止まって惚けていた。簡単な冊子をいただいたのはありがたいが、しっかりした図録がないのが惜しまれる。