「小さいおうち」

郊外の丘の上に建つ赤い三角屋根の家。昭和戦前のモダニズムを偲ばせるこの瀟洒な家には玩具会社の重役平井雅樹(片岡孝太郎)、夫人の時子(松たか子)、一人息子で小学生の恭一という核家族が住んでいて、女中の布宮たき(黒木華)が住み込みではたらいている。そのころの東京の中流家庭には女中という名のお手伝いさんがいるのがあたりまえの光景だった。
二二六事件はびっくりの出来事だったが、多くの人は国を挙げての戦争なんかにはならないだろうとのんびりかまえていて、赤い屋根のおうちにもゆるやかな時間が流れている。そんなある日、たきさんは、時子奥様が夫の部下で上野の美術学校を出たデザイナー板倉正治吉岡秀隆)に心揺れていることに気づく。

時子奥様は赤い屋根のモダンなおうちのドアを出て板倉さんの下宿を訪ねた。待合という密会の場はあっても二人には思いも寄らない場所で、時子は安普請の階段を上がり、二階の板倉の部屋の引戸のなかに姿を隠した。
その日たきさんは帰宅した時子奥様の帯の締め具合が出かけたときとはあきらかに違っているのを見た。
「風の中の牝鳥」で子供の医療費のため一夜の売春をした妻の田中絹代が夫の佐野周二に突き飛ばされて転げ落ちた階段。「晩春」の原節子や「秋刀魚の味」の岩下志麻がいた聖なる空間の二階の部屋。小津監督の二つの場所を山田洋次監督が道ならぬ恋の場所としたのは大いにスリリングまた興味深い。それだけに下宿の二階の引戸が閉まるまでの一線を越えた恋の情感がいまひとつ上手く伝わってこないのが残念だった。
時子奥様と板倉さんとの忍ぶ恋を傍らで見つめ、気を遣いながら、旦那様と恭一ぼっちゃんのことを心配し、世間の視線に気をもむたきさん。時局もだんだんと戦時色が強まり、旦那さんたち玩具会社の幹部は会社の発展を願いながら時代の動向に一喜一憂するようになる。
それらの思い出を、いま平成の世にたきさん(倍賞千恵子)は大学ノートに綴っていて、親戚の大学生健史(妻夫木聡)が原稿を読んで感想を述べてくれることが励みになっている。けれど彼女の死により自叙伝は未完に終わった。たきさんが書こうとして果たせなかった部分を埋めようとするうちに健史は彼女が書きえなかったある隠された事情を知る。
たきさんが平井の家の前に奉公した家の主人(橋爪功)は冗談半分に、家庭円満の決め手は旦那の浮気を表に出さない女中の機転にあるんだよと言っていて、たきさんも時子奥様と板倉さんの恋に彼女なりの「機転」をはたらかせた。そしてそれは彼女の生涯にわたるアポリアとなった。
しっかりと組み立てられた、静かなサスペンスを湛えた中島京子の原作の魅力に応えた映画化(平井家の家族の事情が相当改変されているので比較をしてみて下さい)であり、久石譲の音楽がよい彩りを添えている。
見ぬ世のことながら人物、服装、髪型、装飾品、家具、読んでいる本などを通して感じる東京の昔のたたずまいが愛しく、とりわけ時子奥様と布宮たきを演じた二人の女優に伝統とモダンの微妙に調和した懐かしい時代の雰囲気を感じた。
(一月二十六日丸の内ピカデリー

(ご参考)
書評:中島京子「小さいおうち」
http://d.hatena.ne.jp/nmh470530/searchdiary?word=%BE%AE%A4%B5%A4%CA%A4%AA%A4%A6%A4%C1