「舟を編む」

むかし宇野宗佑という首相が自身の女性問題もあり国政選挙で大敗して引責辞任を余儀なくされた記者会見で、現在の心境を問われ、「明鏡止水」と口にした。家族でテレビを見ていて、小学生の愚息がその意味を問うので、妻がこういうときこそ辞書を引かなくてはと辞書を渡して声に出して読ませたところ「心の平静を乱す何ものも無い、落ち着いた静かな心境」という通常の語釈のあとに「不明朗のうわさが有る高官などが、世間に対して弁明する時などによく使われる」というカッコ書きがあった。
テレビに映る総理大臣が置かれた状況とあまりにピッタリしているので家族は思わず大笑い、つぎに心理をうがった辞書の記述の見事さにほとんど呆然とした。その辞書は『新明解国語辞典』。のちに赤瀬川原平が「新解さん」と呼んでその無類の魅力と個性を説いた。
辞書づくりとそれに携わる編集者の恋の行方を描いた石井裕也監督の新作「舟を編む」でも同辞典の〔右〕アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側、〔恋愛〕特定の異性に特別な愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと、といった語釈が話題になっていた。

出版社で営業を担当する馬締光也(松田龍平)は名前のとおりマジメだが人づきあいは苦手でテンポものろく営業にはまったく不向きな若者だ。折よく退職する辞典編集者が欠員補充を探していて、ひょんなことから馬締はそのメガネに叶い、辞典編集部へ転勤になる。ノリの悪さや朴念仁ぶりはこれまでの営業部署では大きなマイナスだった。ところが新しい職場ではそうした性格がだんだんときまじめ、慎重、ねばり強さというプラスに転換してゆく。
そんななかで現れたのが林香具矢(宮崎あおい)。十年下宿する家のタケさん(渡辺美佐子)の孫だ。仕事でたくさんの言葉を扱っていても胸が裂けるほどの恋心をしっかり伝えられるかどうかは別問題でありコミュニケーションの苦手な馬締に負荷は大きい。
こうして二人の恋のゆくえと人生行路と十数年にわたる辞書づくりがおだやかに、ユーモラスに描かれ、やがて「大渡海」という辞書の完成に向かう静かな高揚感が観る者の胸に迫る。
恋と辞書の成就を願う不器用な男を、恋人に感情と意志を伝える四苦八苦と四方八方からの言葉の波が襲う。貪官汚吏の口先に「明鏡止水」はあっても馬締にはなく、どれほど翻弄されてもその海を渡りきる舟を編むほかない。
宇野首相の記者会見はわたしに辞書のおもしろさを教えてくれたまたとない体験だったけれど、膨大な用例採集や見出し語の選定、語釈の記述をめぐる議論など辞書づくりの過程がこんなにおもしろいドラマになるとはこれまた思いもよらないおどろきだった。
辞書づくりについやす長い時間に起こる悲しい出来事の描写を含め感情や感傷の露出をしっかりコントロールした石井監督の語り口は古今亭志ん朝さんの人情噺の味わいに通じている。まだ四月なのに、ことしの日本映画のマイ・ベストと断定したくなる気持を抑えかねている。
(四月二十日丸の内ピカデリー