『伯爵夫人』

蓮見重彦氏の小説をはじめて読んだ。『伯爵夫人』である。
かねてより谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』を現代日本文学の大傑作と評価するわたしは蓮見氏が二十二年ぶりに書いたというこの小説を読むうち、ときに卯木督助老人が日米開戦前夜にタイムスリップして小説を書いている、あるいは督助老が作者に乗り移ったのではないかといった錯覚に襲われ、その息子の嫁で、もとショーダンサーだった颯子さんはここで伯爵夫人として甦ったような気がした。
読みはじめてすぐにニヤリとさせられ、読み進むうちに血潮は滾り、読み終えたときは興奮(エクスタシー)であられもない嬌声を発したも同然の状態であった。つまりは「事件」である。
東大総長だった人を瘋癲老人とするのはお叱りを受けそうだけれど、「映画狂人」を冠した著作が何冊もある先生には失礼にあたるまい。それに卯木督助老人を『瘋癲老人日記』の作者の分身に見立てるとここでの先生は大谷崎と見まがう小説家である。

二朗は華族の嫡男で、東京帝大法学部の受験を控えた第一高等学校生だ。蓬子という従妹に惹かれていて周囲も似合いのカップルと見ていたところ彼女は別の男性と婚約し、雲行きは不穏である。ときは昭和十六年。
この二朗の家に同居する中年増がいて、伯爵夫人という触れ込みだから父母もしくは祖父母との縁つながりかもしれないが、ロンドンや上海で高級娼婦として暮らしていたとの噂もあり、血統保証の伯爵夫人かどうかはわからない。
二朗がこの謎めいた夫人とハリウッド製恋愛喜劇を観たあと映画を地で行くようにして事に及ぼうとする。ところがこれまで嗅いだこともない甘酸っぱい香りと左の耳たぶにかかる女の吐息で思わず三つ揃いを着たまま漏らしてしまう。
熟女の手練手管といえば軽薄に過ぎる。偽りの伯爵夫人かもしれないが、彼女がこれまでの人生で身につけた性技は眉唾物どころか、その奥行ははかり知れないものがあった。そうして二朗は夫人に「おみお玉」を一握りされ、はしなくも意識を失ってしまう。
(「きんたま」なんて無闇に口にすべきじゃない、でも睾丸というのも妙にぶっきらぼう、「おみお玉」くらいならよいかしら、といったやりとりがあるものだから、下々のわたしもこれまで知らなかったこの言葉を畏れ多くも用いさせていただいた)
二朗は気がつくと友人の濱尾の家の床に下半身をあらわに横たえられ、ようやく朦朧状態から覚めて、どうもみっともないものを見せびらかしちまってかたじけないと口にすると、当家の女中は、滅相もございません、玉々さえお痛みでなければ他人の目もはばからずにむしゃぶりつきたくなるほどみごとなものを間近から拝見できましてまことに光栄でございます、奥様も、さすがに子爵様のお孫さんだけあって、日本人離れのした色艶をしていると感嘆しておられましたが、この私の目には、色艶にとどまらず、そのスマートな長さといい、ずんぐりしていながら無駄のない太さといい、天下一品というほかないものでございますと応じる。
ここでニヤリもしくは呵々大笑できなかった方は本書と縁なき衆生かもしれない。でもこの箇所はまだはじめのほうで、この先、ユーモアと嘘っぽさをまじえて記述された昭和戦前の上流階層の生活風俗が性談と結びついたり、はじけたり、さらには「おみお玉」が危機に瀕する活劇が演じられ、伯爵夫人の数奇なる体験が再現されるのだから断念するのはまだ早い。
いささか性談の話題に偏してしまったが、上の二朗と女中とのやりとりから窺えるように本書は技巧と贅を尽くした日本語の芸により構築され、編まれた物語であり、言葉の「秘術」がもたらす、戦前であれば世に流布されることのなかった「秘本」である。
もうひとつ本書の魅力にあちらこちらに散りばめられた昭和戦前のモダニズムのアイテムがある。現代仮名遣いで書かれてはいるが「聖林」「活動小屋」「巴丁巴丁(バーデンバーデン)での季節はずれの湯治」「艶のある肌色の靴下を太股にガーターでとめ、エナメルのハイヒールまで履いている(中略)さっぱりとしたボブカットの髪に手をあてながら」といったふうに言葉の選び方や表記を通じて昭和戦前の雰囲気が漂う。そのころの映画をめぐる薀蓄ある話題もうれしい。
本書のオビには「エロス×戦争×サスペンス」とあり、最終頁で二朗がふと夕刊の一面に目をやると「帝国・米英に宣戦を布告す」との文字が踊っている。
著者の『随想』に収める「十二月七日という世界史的な日付が記憶によみがえらせた、ある乗馬ズボン姿の少年について」という一文には宣戦布告の日をめぐる複雑な感情が述べられていて、そこに「戦争の始末におえない怖ろしさは、軍人が軍人としての義務をはたしえない状況に軍人を陥れるメカニズムが不可避的に作動してしまうことにある。かりに自国民の防衛が軍人の義務だとしても、沖縄戦を想起するまでもなく、その義務をはたしえない軍人を少なからず生産してしまうのが戦争の本質的なメカニズムだからである。そのメカニズムを作動させないためにわれわれが存在しているはずだが、われわれはその義務にどこまで自覚的たりうるだろうか」とある。こうして本書はかろうじて「戦争の始末におえない怖ろしさ」に先立つ熟れたエロスとサスペンスの味わいを放つ。