くさい仲

京大医学部で解剖学を学び、考古学、人類学、民族学を専攻した金関丈夫(1897〜1983)に『長屋大学』という著作がある。一九八0年に法政大学出版局が発行している。ときどき書店で見かけた本だが、たぶん長屋大学という江戸時代のどこかの藩の家老の伝記なんだろうと思い、特段の関心はないものだから手にしたことはなかった。ところがさきごろある古書店でたまたま目次とあとがきを見て、なんの家老の伝記であるものか、長屋の八つぁん、熊さんを相手のすこしへそ曲がりなご隠居の蘊蓄話といった意味の書名と知りさっそく購入におよんだ。

『長屋大学』の著者の和漢洋におよぶ博識はおどろくべきもので、まずは「歌舞伎二題」を採りあげてみましょう。
伽羅先代萩」に細川勝元が仁木弾正に「虎の威を借る狐」の講釈をきかせる場面がある。著者はこの話ははや慶長年間にわが国にも伝来していたイソップ物語から歌舞伎作者が取り入れたのだろうと考えていたところ、漢の劉向の『新序』に載っていたものだから、あらためてイソップ物語を調べてみると、いかにもありそうな話なのにじつはなかった。しかしイソップをはじめとして西洋には狐の狡猾を描いた物語は多く、東洋ではとくに中国に多い。そこで食肉類による家畜の被害に悩まされた民族には期せずして同様の物語ができたのではないかと推測、そのうえで「その文学的表現を得た代表者が、西洋では『ライオネーケ・フッックス』。東洋では情緒的妖怪文学にまで進んで『聊斎志異』中の幾篇かを生んだ。日本の「葛の葉」物語の如きも、はなはだ情緒的な可憐な文学になっている」とこの短文は結ばれる。
歌舞伎おける「虎の威を借る狐」の出典から文学上の狐の話に転じ、最後は狐の登場する世界文学の展望が示される。
どうです、凄いものでしょう。しかもこの人は考古学、人類学、民族学の学究だから活字以前のフィールドに明るい。
「あいさつ」という一文に、あいさつにはむかし、鼻と鼻をくっつける「鼻キス」というやり方があったとある。清代台湾の高砂族にもこの風習が残っていたそうだが、同様の風はアフリカ、イラン、インド、ニュージーランドミクロネシア等々におよんでいた。あいさつとはもともと相手のにおいをかぐことであり、口へ転化したのはそのあとだった。
「鼻キス」のあいさつも無愛想なそれは「木で鼻をくくる」態度となるとは金関先生の冗句だが、そこから小生、この碩学の向こうを張ったわけではないけれど、無愛想とは反対に鼻と鼻をこすってにおいをかぐのも度が過ぎると「くさい仲」になると考えた。遠いむかしの人は男女のあやしい雰囲気には現代人よりはるかに鼻を利かせていたのではないか。
在職時の単身赴任で、食事をつくるのに較べると洗濯は楽だなあと思った。もとより洗濯機があればという条件付きであり、この家電製品が普及していないころはいま少しやっかいなものだった。だから洗濯物をそのままにしてある男を見て、好意を寄せる女が「洗濯してあげましょうか」とささやく場面は恋愛の物語のはじまりにふさわしい場面となった。たとえば戦後すぐの五所平之助監督「伊豆の娘たち」に、東京から人事異動で伊豆へやってきた佐分利信に、下宿先の娘の三浦光子が、洗濯ものをお出しなさいよという場面がある。洗濯が取り持つ縁である。
洗濯物には好きな相手の体臭が染みている点で「鼻キス」の要素を含んでいる。つまり洗濯とセックスは隣りあう関係にあるから洗濯がらみの性愛談があって当然で、氏家幹人『江戸の性談』(講談社)には会津藩の記録を編纂した『家政実紀』にあるそうした話が紹介されている。

文三年(一六六三年)十二月二十一日儀道という僧侶が不義密通の廉で鼻そぎのうえ追放になった。僧の身でやすという独身女性と密かに関係したうえ噂が広まると居たたまれなくなり逃亡を試みたが失敗に終わった。寺にしばしば参詣に訪れていたやすと儀道が関係を持つにいたった機縁は「洗濯抔(など)いたし遣(つかはし)候縁より」であったという。
氏家氏はさらに西鶴『好色一代女』にある「奥なる女中は男見るさへ稀なれば、ましてふんどしの匂ひもしらず」とのくだりを引いて、将軍家や大名家の奥に勤める女中が男の姿さえ見る機会が少なく、ふんどしのにおいがどんなものか知らない事情に触れている。女がそのにおいを知るのは洗濯であり、それさえ無縁となれば同衾など望むべくもない。満たされぬ欲情はふんどしのにおいへのあこがれをつのらせる。こんにち女性の用いた下着のにおいを嗅いで興奮する男と好一対というべきか。
これらの事例をふまえ著者は「不倫の恋の物語において、洗濯は男女が一線を越える重要なきっかけだったのではないか」と書いている。「鼻キス」というあいさつはなくなっても、においを媒介にしてそこから男女の仲が進む仕組みは洗濯に受け継がれていたのであり、洗濯機の発明と普及はその仕組みを過去のものとしたといえよう。
菅原洋一のヒット曲「今日でお別れ」に「あなたの背広や身のまわりに/やさしく気を配る胸はずむ仕事は/これからどなたがするのかしら」という未練たらしい一節がある。これまで述べてきた観点からすれば、身のまわりに気を配る仕事は「胸はずむ」としても洗濯機を用いると用いないとではそのはずみ具合はだいぶんちがうような気がしますね。
もっともいまの若い人たちはあからさまに性と肉体を感じさせるにおいは遠ざける気分が強いのではないかな。長いあいだにわたる洗濯機の影響であり、ネットや携帯の普及もなんらか作用しているのだろう。