「清明時節雨紛紛」

「十八歳の頃、僕は十九世紀ヨーロッパの古典を読んでいました。主にトルストイドストエフスキーチェーホフバルザックフロベールディケンズです。彼らは僕のヒーローでした」。村上春樹が「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」で語った読書体験であり、かれの「教養」の形成過程の一部分といってよい。
トルストイドストエフスキーチェーホフバルザックフロベールディケンズ・・・・・・いずれともわたしはまったくといってよいほど接点がない。読書は人それぞれと思いながらも、この歳になるまで何をしていたのだろうという気になる。ほぼ同年齢(一つ違い)という事情もある。
十八歳の頃、わたしがいちばん熱心に読んだのは魯迅であり、その体験を通じて学んだのはかれの抵抗の精神だった。これには竹内好魯迅論が大きく影響している。ならば自分なりに学んだ抵抗の精神をどれほど活かしてきたかとなると忸怩たるもので、魯迅の厳しさを息苦しく感じたことも一再ならずあった。中年になって親しんだのは永井荷風であり、いまのわたしは魯迅よりも荷風の影響が強い。
魯迅荷風。微妙な接点をいえば、六十年安保の際、ときの岸内閣(岸信介首相はいまの安倍首相の祖父)の政治姿勢と国会における強行採決に抗議して都立大の教授を辞職した竹内好慶応義塾大学の文学部への出講は続けた。荷風ゆかりの学部を辞する気にはなれなかったと聞いている。
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題名は忘れたがむかしのフランス映画でヨーヨーをしているシーンがあり、へーえ、フランス人もヨーヨーをするんだと念のため調べてみたところ、あの玩具は古代ギリシアに遡り、フランス革命当時は混乱のもたらすストレスを解消するものとして大流行したとあった。ついでながらヨーヨーの日本への渡来は江戸時代中期、中国からだそうで、はじめ長崎で流行、享保年間初期には京坂で売られ、やがて江戸でも流行したそうだ。
昭和になると洋行帰りがアメリカみやげとして持ち帰り、モボとモガにもてはやされてふたたび流行した。永井荷風は「濹東余譚」に昭和七年の夏から翌年にかけての世相風俗として「百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に晒させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通りの角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった」と書いている。
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上田秋成(1734-1809)『雨月物語』に収める「貧福論」に「昔から、奢れる統治者は久しからず、です。倹約ということが大事なのです。ただし、これも行き過ぎると、卑しいけちんぼになりさがります。したがって、倹約とけちのけじめをよくわきまえなければなりません」(後藤明生訳)という教えがある。
おなじ作者の『春雨物語』の「二世の縁」で、ある商家の主人の母親が考えるところあって「これまで長い間、後世を大事と思えばこそ、息子の金を無駄使いしてまで、お寺へのお布施だけは怠るまいと勤めて来たけれども、それはすべて、狐か狸に騙されていたようなものです」(同上)と語り、嫁や孫に手を引かれあちらこちらに遊び、のどかでたのしい晩年の生活を求めるようになる。仏教から解き放たれた彼女はやすらぎを見出したようだ。
二つの話には時代の合理的な経済観念がうかがわれる。「倹約とけちのけじめ」をつけ「狐か狸に騙されていたようなもの」には金を遣わない。下流老人予備軍としてのわたしも考えておくべきことがらである。
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CS放送のA X Nミステリーで「刑事コロンボ」全六十九話を見た。現職時にはテレビドラマとほとんどご縁のなかった自分としてはなんだかびっくりだ。退職してテレビドラマが待ち受けていたのは予期せぬ展開で、ミステリー大好き、そうして時間はあって金のない人間にはまことに都合がよい。
続いてはおなじチャンネルで放送している「主任警部モース」のシリーズはどうかと「ジェリコ街の女」と「ニコラス・クィンの静かな世界」を試してみた。二つとも名前は知っているがコリン・デクスターの原作まではとても手が回りそうにない。
結果はストーリーが複雑で自分に向いた作品ではないと判断して早々に撤退した。
「主任警部モース」を複雑といえば嗤われるかもしれないけれど、鈍くさい日本のわたしとしては甘受するほかない。比較してコロンボは単純だからよかった。水戸黄門、寅さんとともに大いなる繰り返しだ。
わたしにはストリップのような単純な筋立てのほうがよい。友人の某氏は、あれはストーリーの範疇には入らない、と言ってたけど。
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NHK BSで「ノスタルジア」をみた。アンドレイ・タルコフスキー監督の名作として名高いこの映画はずいぶん前から気にはなっていたが、ゲージュツに弱いわたしとしてはこれまで避けてきた。ところが舞台がイタリアと知り、一念発起して鑑賞に及んだ。映像とりわけイタリアの眺めには魅せられたが物語としてはゲージュツでした。
同監督の作品は前に「惑星ソラリス」で頭痛に襲われたが、今回はロシアへの懐郷の気持はよくわかるのでそれほどのことはなかった。第三十六回カンヌ国際映画祭創造大賞受賞の「ノスタルジア」、たしかに創造の雰囲気は漂っている。
ネットでの批評を見ると総じて映像についての評価は高いものの作劇については「個別の絵はきれいでも全体に意味がなきゃ、ただのだめ作」「ストーリーを追いかければその芸術性を見失って退屈で途中で断念してしまう」といった意見がけっこうあった。
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この一月にはじめてドイツへ行き、ベルリン、マイセン、ドレスデンを廻ったが、本命はプラハブダペストだったから、ことのついでに観光してきたようなものだ。ヒトラーとナチでドイツ旅行の意欲が湧かない。家族はいつまでそんな偏狭なことを言っていると笑うが気持ちの赴くところは否定しようがない。(写真はゲシュタポ本部跡)

昭和戦前ドイツに熱狂した日本人は多く、それまでの英米協調は棄てて一気にナチスドイツへのめり込んだ。その事情について半藤一利は『ノモンハンの夏』で、堅実、勤勉、几帳面、端正、徹底性、秩序愛などのいい面から、頑固、無愛想、形式偏重、唯我独尊といったマイナス面に至るまで日本人はドイツに己の投影をみとめたと述べている。また、日本人とドイツ人は団体行動に長け、順法精神に富み、競争心が強く、働くことに生き甲斐を感じている、組織に対する忠誠心も旺盛だ。
となると日独伊三国同盟のなかでイタリアは異質なイメージで、こんどはイタリア抜きでやろうと考えているネオ・ナチがけっこういるんだとか。
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あなたの旅立ち、綴ります」。主演のシャーリー・マクレーンを意識的に見るようになったのは「ハリーの災難」それとも「アパートの鍵貸します」だったか、日本公開は前者が一九五六年、後者が一九六0年、どちらも名画座かビデオでの出会いだったがいずれにしても遠い昔の話だ。
ビジネスで成功を収め、いまは人生の終わりのつけ方を意識している老婦人ハリエット(シャーリー・マクレーン)が自身の訃報記事を生前に用意しておこうと、若い女性記者アン(アマンダ・セイフライド)に執筆を依頼する。そこでアンはハリエットについての材料を集めようと彼女を知る人たちにインタビューをはじめたところ、出てくるのは嫌われ者で自己中心の婆さんのエピソードばかりだった。アンにもハリエットはそのように見えた。ところがつきあううちにアンはハリエットに、積極的また真摯に人生を送ってきた姿を見出す。
一九三四年生れのシャーリー・マクレーンはプロデューサーを兼ねていて、彼女のお気に入りと思われる写真がハリエットの生涯をたどるものとして多数用いられており、うれしい贈り物となっていた。
「よい一日より、ほんとうの一日を送るべき」というハリエットの一言に共感を覚えた。
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先日教え子たちと会う機会があった。
「先生、授業はテキトーで身体を動かすのは熱心だったから歳を取っても元気ですよね」
「きみ、そんな人聞きの悪いこと、言わんといてくれ。授業という知識を販売するところで、きみたちの購買意欲が低いから、押し売りを避けただけで、けしてテキトーではない」
「押し売りを避けたという割にはしつけ(生徒指導)はずいぶんと押し売りだったじゃないですか」
「人を見て売るべき商品を選ばないといけないからね。きみたちには知識よりしつけを売らなくてはいけなかったに過ぎない」
いかん、いかん、こんなことを調子に乗って書いていては。自民党の文教部会のセンセイ方が文科省の役人をパシリにして前の同省事務次官の講演内容を調査したりする怖い世の中である。
その昔、日本では「近代の超克」が言われた。もう古典的、近代的な自由主義の時代は終わった、時代は近代を超克する新しいステージに突入している云々。けれどわたしは古典的自由主義にこだわるし、大切だと考える。自民党の文教部会のセンセイ方の行動は、自由主義の成分が稀薄になりつつある表れのように見えてならない。
「自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである」。(J・S・ミル『自由論』斎藤悦則訳)
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暖かくなると晴明節を思う。二十四節気の五番目にあたっていて、確かめてみるとことしは四月五日がその日だった。晴明は「万物発し清浄明潔となる」にもとづいている。
清明節を知ったのは多くの諸兄姉とおなじく、高校の漢文の授業で杜牧の「清明時節雨紛紛/路上行人欲断魂」を習ったときだった。
晴明は知っても漠然と春の節気と意識するだけで具体の日を調べようとしなかったから曖昧のそしりは免れない。春分は休日だからともかく清明また穀雨啓蟄となると日付は模糊としている。周囲からザルのごとき神経と評される所以だ。それでも人間が多少は出来て?季節の跫音と日付にも気を用いるようになった。
「晴明や父の好みし松に凭り」(ながさく清江)。作者は雪国の方だろう。松の枝に降り積んでいた雪が、春が近づくとともに少しずつ溶け、また地に落下する。そうして松の緑が徐々に顔を出す。その光景を見ていると晴明がよけい愛おしいくなる。ご尊父の思い出とともに。