燃え尽き症候群

破天荒なアクション、悶絶のミッション。快調のシリーズ最新作「ミッション:インポッシブル/ ロング・ネイション」でマンガスパイ物語を堪能した。007シリーズがちょいとシリアス度を高めている傾向にあるので、こちらはマンガ度を高めるほうに舵を切るのがよいのではないかな。
昨年の秋、モロッコを旅行した際、現地のガイドさんが、いまこのシリーズ最新作のロケで、トム・クルーズカサブランカに来ていますと言っていた。残念ながらロケ風景は見られなかったけれど「ロング・ネイション」はモロッコの風景がけっこうあって嬉しい。くわえてロンドンやウィーンにもロケしている。前作ではプラハの風景が美しく、シリーズ化で世界都市周遊の趣きが出てきた感があり、この面でも今後が楽しみだ。
有楽町の映画館のあとは銀座のビアホールでのどを潤した。この日は特別にバンド演奏があり、ことのほか旨いビールだった。プラハのビアホール以来の「ビア樽ポルカ」の生演奏で心ウキウキ。

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すこしまえの「週刊新潮」に「ドクター秋津の長生きするのはどっち」という記事があり、早朝のランニングと夕方のウォーキングと、どちらの死亡リスクがすくないかの答えとして、早朝ランニングは不可とあった。在職中は勤務時間後に走る日が多かったが退職してからは早朝ランニング派で、おれは健康のためではなくレースのために走るのだと自分を納得させた。
おなじ記事に、アメリカの医療専門誌に掲載された適切なランニング習慣の紹介があり、走行距離が一週間32Kmを超えない、速度は時速8〜11.2Km、走る回数は一週間2〜5回以内の三条件が示されていた。困ったことに、当方、いずれの条件にも背いている。スポーツは健康に良いといっても競技となると健康と背馳するばあいがあるのは、プロアマ、ピンキリ問わない。古今亭志ん生の「養生なんてもんはな、いい若い者がするから養生なんで、この年齢になって、いまさら養生もくそもあるかいッ」なんて言葉を糧に老骨も早朝ランニングを続けるのだと決めていたところへ激震が襲った。

六十五年を生きてこの八月中旬の某日に覚えた疲労感ほど凄まじいものはなかった。身体に疲れの防波堤があるとすれば、暴風雨で決壊したとしか思えなかった。この日までの一週間のランニング距離は50Km、去年の夏に右脚のハムストリングスを痛めていて、ことしは熱中症、夏バテとともに留意したつもりが、調整に失敗したのだろう超弩級疲労とあいなった。
翌日は風邪のウィルスが腹に来たみたいで、こちらは以前いただいた薬でまにあったが、引き続き咳と痰が出て、二三日で収まるだろうと勝手に予測したが一週間経っても収束の気配なく、おまけに微熱が下がらず、やむなく呼吸器科で診察を受け、レントゲン、呼吸器の検査、血液検査をした。
はじめ喘息が疑われると言われたがさいわい違った。しかし咳は止まず熱は六度台後半から七度台前半をさまよった。心電図では心臓にだいぶん負担がかかっていると言われた。それでも食欲は旺盛、晩酌も大丈夫、ただし微熱のまま外出するとすこしふらふらする。いま振り返るとこんなに治りが遅れたのは疲労というよりも衰弱状態にあったとおぼしい。
ようやく九月に入って咳も熱も収まったがこの三週間続いた事態は精神面への影響も大きく、自己診断すれば燃え尽き症候群に陥ったのだろう、走る意欲を支える心のつっかい棒の硬度はまだ十分に回復していない。
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谷沢永一『紙つぶて』にある某大学の小規模専門図書館評。「悪条件を集中した世界でも最も劣等な図書館の標本なりとの定評が確立、こういう図書館を何処でも絶対に今後は作るべからずと肝に銘ずるために関係者は一度かならず見学すべしと言い伝えられている」。
新国立競技場がコンペで採用されたザハ・ハディド案通りに竣工されたと仮定して、どのような評価を受けたかはわからないが、要した金額からすると怨嗟の的となったかもしれない。なんて思っていたところ、エンブレムも白紙撤回となった。
「オリンピックのエンブレムが残念な結果になりましたが」と問いかける記者に森喜朗東京オリンピック組織委員会会長はぶっきらぼうに「何が残念なんだ!」と応じていた。わたしは礼儀マナーを云々できる者ではないが、これが一国のリーダーとしてオリンピックを成功に導こうとする人のとる態度だろうかと思った。
ときに識者がこの国の劣化を論じている。判断はつきかねるけれど、野党議員の質問中に、しかも自衛隊員の命がかかる法案を審議しているさなか理事者側というのかな、内閣で答弁する席からヤジを飛ばす首相なんて見たことがない。安全保障関連法案への賛否以前の問題であり、政権を担う者としていかがなものか。恵まれた環境での生育はこの人に、攻撃力はともかく、辛抱、我慢、ディフェンス力を養う機会をもたらさなかったのではないか。だからだろう、首相の表情を見ていると安全保障関連法案で切れ目のない国防を期すと口にしながら、米国とともに他国の攻撃が可能となるのがうれしくてならないように見えるときがある。
森喜朗先生はたしか自民党文教族の重鎮だった。安部首相は評価付きの道徳教育を唱道している。そうした方にしてにべもない対応やヤジを飛ばす姿をさらす。自分の背中は自分には見えない。わたしも心しておかなければならない。
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あいにく台風となったが九月九日は重陽節句。旧暦でこの日は新暦の十月中頃にあたっていてかつては菊の節句と呼ばれた。
一九七六年のこの日、毛沢東が亡くなった。そのときの報道記事の幾つかが重陽に触れていて、花鳥風月とは無縁の無粋なわたしはこの節句を知った。
同年三月にはじめて中国を旅して北京、天津、上海を訪れた。この年は激動の一年で一月八日に周恩来が亡くなり、七月六日に人民解放軍健軍の父と称された朱徳が亡くなり、同月二十八日に唐山の大地震があり、中国の発表では二十五万人が亡くなった。そして毛沢東が逝った。
在職中、若い同僚に、ぼくが初めて訪中したとき毛沢東は在世だった、なんて話をすると奇異な目で見られたような気がしたが、毛沢東は教科書の歴史人物である若い人たちにはそんなふうに映るのだろう。
重用の節句を歳時記に見ると、むかしは命を延ぶるという菊酒を飲み、栗飯を食べるのが一般の風だったとある。今宵は菊酒をウィスキーに代えて晩酌だ。
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桂米朝コレクション1』(ちくま文庫)によると「長屋の花見」で知られる古典落語ははじめ「貧乏花見」として上方で演じられていて、大正時代に東京へ移されている。
米朝師の口演を読むと上方のほうでは人間の欲望があらわに出た噺となっている。

「遠い所は足代がかかっていかねえ、近間がいい。今、上野の山は見どころだッてえがどうだ」。五代目柳家小さんの「長屋の花見」より。上野、向島飛鳥山など桜どころのうち「長屋の花見」は上野とされている。いっぽう米朝師の「貧乏花見」では地名はない。大阪だからあるいは桜ノ宮だろうか。
「長屋中歯をくいしばる花見かな」。酒を飲めない長屋の連中は番茶を酒に見立てて辛抱するのはおなじでも上方に川柳のくだりはなく、ここは東京の工夫で川柳を援用して垢抜けというか洗練化を図ろうとしたわけだ。
他方米朝師の噺には「お前、何をクヨクヨしてるねん。考えたかてしようがないやないか。陽気に行け、陽気に。明日は明日の風が吹くわい」といった人生訓がある。
米朝師の「長屋の花見」につづいては三代目三遊亭金馬「円タク」を読んだ。初出は「講談倶楽部」昭和八年一月号で『昭和戦前傑作落語全集』(講談社)に収められている。「朝夕のラッシュアワー」という言葉が見えており、モダニズムの一環としてのスピードが喧伝され、一円の同一料金で東京の街を円タクが走っていたころの風俗が面白おかしく描かれている。
この噺で、客がタクシーをつかまえて乗ったところ、下駄に喩えると「歯の抜けかかったのや、鼻緒の切れかかった」類の車で、客がドアを細引きで引っ張っていないと開いてしまう、おまけに運転手から「天井へさわっちゃアいけませんよ、すぐに屋根が抜けます」とのご注意がある。このタクシーは「船徳」の若旦那徳三郎が漕ぐ船の現代版そのもので、たぶん作者三遊亭金馬は意識していただろう。
古典落語からの置き換えは新作落語の骨法の一つである。
吉原の花魁と牛太郎が許されない仲となったが店の旦那の計らいで二人は一緒になり、おばさんと牛として働くようになったのはよかったが、やがて亭主の博奕がもとで店にいられなくなり、かつての花魁はケコロという最下級の女郎として客を取り、亭主はその客引きとなる。
古今亭志ん生が文部大臣賞を受けた「お直し」の一席で、これにもソープランドの女性とマネージャーに置き換えた景山民夫作の新作落語があると聞く。高座でめぐりあうのは至難だとして、せめて活字で読んでみたいと願っているが叶わないままだ。(ご存知の方いらっしゃいましたらぜひお知らせください)