年末と「第九」

年末の風物詩にベートーヴェン交響曲第九番(合唱付き)」があり、わたしもこの季節になるとわが家にある唯一の「第九」、一九五一年バイロイト音楽祭でのフルトヴェングラー指揮によるディスクを取り出して聴くことになる。

年の暮れと第九が結びついたのは、一九一八年第一次世界大戦が終わって平和を願う声が高まるなかドイツのライプツィヒではじまり、以後、名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が毎年の大晦日「第九」を演奏し続けて、各地に波及した。

「第九」の初演は一八二四年五月七日、場所はウィーンで、当時ほとんど耳が聞こえなくなっていた五十四歳のベートーヴェンは自身による指揮は叶わなかったが、熱狂的に拍手する聴衆の姿は目にしている。

日本ではその百年後一九二四年の十一月二十九日、上野公園にある東京音楽学校の奏楽堂で初演された。 一部が演奏されたことはあったようだが指揮者、オーケストラ、歌手を揃えての演奏はこの日がはじめてで、清岡卓行のエッセイ「一九二四年晩秋・初冬」によると元ベルリンフィルのヴァイオリニストが指揮者となり、同校の先生や学生たち日本人が演奏して、長い練習の成果が出て好評だったという。

わが国で年末の「第九」が定着したのは諸説あるそうだが、ふたつの有力な説があり、ひとつは一九四三年十二月に奏楽堂で行われた学徒壮行音楽会での演奏に由来するというもの、もうひとつは戦後、貧しかったオーケストラの団員たちが臨時収入を得るために演奏したのがはじまりというものだ。おそらくライプツィヒの情報も伝わっていたのだろう。

不忍池の周回と上野公園を主たるジョギングコースにしていて、しょっちゅう写真の奏楽堂の前を通る。一八九0年東京音楽学校の本館として建てられた奏楽堂はわが国初の本格的な音楽ホールとして重要な役割を果たしたが、老朽化が進み、一九八七年広く一般に活用されるよう現在の上野公園内に移築復元された。

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警察小説の源流~『彼女たちはみな、若くして死んだ』

ヒラリー・ウォー(1920-2008)はわたしの大好きなミステリー作家で、さきごろも『生まれながらの犠牲者』の新訳本(法村里絵訳、創元推理文庫)を読み、あらためてこの人の作品にはハズレがないなあと感心した。

『生まれながらの犠牲者』は行方不明となった十三歳の少女を捜す警察小説で『事件当夜は雨』『冷えきった週末』などとおなじコネティカット州ストックフォード警察署のフェローズ署長を主人公とするシリーズの一冊だ。

シリーズといっても捜査にあたる面々の私生活の変化や警察内部の人間関係や人事をめぐる確執などには触れず、毎度ひたむきに捜査を進める姿が描かれる。だからどの作品から読んでもよく、見方によってはサービス精神の不足と映るかもしれない。しかし、そこが愚直なほどにまじめな作風のこの作家らしいところなのだ。私立探偵サイモン・ケイシリーズは未読ながら、わたしはこれまでヒラリー・ウォーの作品に不満を覚えたことがない。

派手なホームランバッターではないけれど、クリーンヒットを着実に打つシブイ選手というのがわたしのウォーにたいするイメージで、理詰め、足で稼ぐ、細部まで裏付けをしっかりとる、アクションも奇を衒うこともなく、仮説と検証を重ねながらの捜査はスリリングで目が離せない。松本清張「張込み」は大好きな短篇小説(映画も)で、これを長篇に拡大すればウォーの警察小説になるのではないか、というのがひそかな独断だ。

この作家が警察捜査小説(ポリス・プロシーデュラル)というジャンルを確立した記念碑的作品が一九五二年に上梓された『失踪当時の服装は』だった。そしてこの作品を書くきっかけとなったのがチャールズ・ボズウェル(1909-1982)の犯罪実話集『彼女たちはみな、若くして死んだ』(山田順子訳、創元推理文庫)であった。つまりヒラリー・ウォーによってこの先駆的犯罪ノンフィクションは警察小説の源流となったのである。

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本書がニューヨークを拠点にしていたクィン・パブリッシング社から刊行されたのは『失踪当時の服装は』に先立つ三年前の一九四九年、ニューヨークの花嫁学校の寮での不審な薬物死、海辺のバンガローで発見された身元不明の首なし死体などいずれも若い女性が犠牲となった実在の十の事件が丹念に調べ上げられ、憶測を排した的確な文体で語られている。なお事件はアメリカかイギリスで起きたもので、期間は一八九一年から一九三六年にわたる。

川出正樹氏の解説によると、駆け出しの売れないハードボイルド作家だったウォーは事実のみが発することのできるオーラの虜となり、一言一句貪るようにして読んだという。事実のみが発することのできるオーラとはのぞき見趣味や扇情とは無縁の、事件の顛末を淡々と詳細に描写するノンフィクションの筆遣いにほかならず、ウォーはこのタッチを、一九四六年に起きた未解決事件「ポーラ・ジーン・ウェルデン失踪事件」に取材したフィクションに導入し『失踪当時の服装は』を完成させた。そこにあるのは「実在する都市や施設の名を作中に取り入れ、事件の進行に即して具体的な日時を記載した上で、関係者の反応を細密に描写することで“ノンフィクションのようにリアルなフィクション”」(川出正樹)だった。

 

「十二月八日」のあとさき

一九四一年十二月八日からことしで七十八年が経つ。いつだったか、どなたかが、いまの日本の雰囲気を七十八年前の十二月八日のまえに似ていると語っていた。そのときはいくらなんでも心配のし過ぎだろうと思って気に留めなかったが、先日、堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』を読み、そこにある開戦前後の記述に必ずしもそうではないかもしれないと感じるところがあった。

戦前には支那事変といわれた日中戦争は一九三七年七月七日の盧溝橋事件にはじまった。事変といっても実質は戦争にほかならず、日本側の見込み、思惑は外れてだんだんと泥沼化の様相を呈していたうえにわが国は米英との戦争に突入した。

当時慶應の学生だった堀田善衛は、開戦に際し武者小路実篤が、袋小路のような支那事変は実に憂鬱であったが真珠湾の一撃によって天の岩戸にも比すべき夜明けが来た、と述べていたのを回想している。

武者小路のいう「憂鬱」な戦争、それは中国にたいする執拗、陰湿な侵略、謀略の絡んだ大義のない戦争と解してよいだろう。この「憂鬱」を追い払ったのが「真珠湾の一撃」だった。

「もはや大東亜の天地から米英は駆逐され、さらに我国自身も多年政治に経済にまたは心理の上で圧迫を蒙って来た傲慢な二大強国を倒すことによつて新たに生れ変わらうとしてゐる」と書いた中村光夫日中戦争には言及していないが、ここからも十二月八日の開戦に暗雲の晴れた気がした、あるいは暗いトンネルから抜け出た気分がうかがわれる。

堀田の知る左翼崩れの人たちのなかには「十二月八日以後はさっぱりした、さっぱりした」と触れ回っている連中がいた。堀田はかれらを批判的に見ていたが「さっぱり論」に例外があって「あの憂鬱な、どこまで行ったらどう解決するのかわからぬ、五里霧中の支那事変というものが、こういうかたちでさっぱりと解決した、というはなしは、この方はいくらかはわからぬではなかった」と書いている。

これらを突き詰めてゆくと日中戦争、太平洋戦争の基本的性格がひとつは植民地侵略戦争であり、もうひとつは英米帝国主義にたいする戦争であったことがよく理解できるだろう。堀田のいう「さっぱり論」は前者を疑問視もしくは否定していた人々が後者を局面転換の機会として認める議論だった。

支那事変に懐疑し、納得しかねるうえに出口のまったく見えないところまで来てしまったと考える人たちに米英との戦争は相手に不足はなく、心機一転やさっぱりした感じをもたらしていたのだった。

そのことを念頭に置いて冷戦終結から三十年が経過した世界のいまを見ると世界の分断、軍拡競争、テロ、軍事衝突の危険性はかえって増しているようである。イスラム過激派によるテロ、ヨーロッパへの難民の流入、新たな冷戦とも呼ばれる米露関係、核拡散と破綻した状況にある核軍縮、米中の貿易摩擦、進展のない拉致問題、たび重なる北朝鮮によるミサイル発射、高齢化と人口減少からくる将来の生活不安といったニュースに接していると、出口の見えない暗いトンネルにいるような気分になるのは否定できない。そうして、もういい加減、さっぱりしたいといった気分はすぐそこにあり、その延長線上には北方領土をめぐり「一撃」を求めた国会議員がいる。

「袋小路のような支那事変は実に憂鬱であったが、真珠湾の一撃によって天の岩戸にも比すべき夜明けが来た」の「支那事変」と「真珠湾の一撃」をカッコにして何かを代入すると、近未来のわが国の姿になる恐れはないのだろうか。杞憂であればさいわいだけれど、歴史は繰り返すともいう。

こうして、いまの日本の雰囲気を七十八年前の十二月八日のまえに似ているといった感じ方は必ずしも荒唐無稽や突飛な話ではないかもしれないと思ったしだいである。

旅の終りに(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ六十四)

凱旋門売店で買い物をして、そのあと再びシャンゼリゼ通りをコンコルド広場に向けて散歩した。

凱旋門ノ正中ヨリ、『シヤンゼルゼー』ノ広衢ヲスキ、其衝当(ツキアタリ)ニ「チュロリー」宮アリ、宮門ノ前ニ、又一場ノ広区ヲ開ケルヲ、『コンゴルト』ノ苑ト云フ、巨大ナル石磐ヲオキ水ヲ噴跳シ、石彫ノ大像盤ヲ環シテ立ツ、中央ニハ埃及(エヂプト)国ヨリ遷シタル『オブリスキ』塔ヲ建テタリ」。

つまり久米邦武編『米欧回覧実記』にあるのとおなじコースをたどったしだいで、特命全権大使の一行が見たもので、いまもそのままのものは多い。ヨーロッパ旅行のたのしみのひとつである。

コンコルド広場で一休みしたあとはルーブル美術館へ行ったが入館する時間はなく、オペラ座へ出て界隈を廻り、近くのレストランでゆっくりと食事とワインのときを過ごすと日はとっぷり暮れていた。ルーブルの地下駅からホテルに帰ったが美術館の庭から遠くにエッフェルが見えていた。(おわり)

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凱旋門上からの眺め(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ六十三)

サン・ジェルマン・デ・プレからシャンゼリゼ通りへ出た。ルイ・ヴィトンは賑わい、向かい側のキャバレー、リドでは華やかなショー繰り広げられているが時間がなく、シャンゼリゼを散策したあとは凱旋門に上がった。

野上弥生子は『欧米の旅』に、凱旋門上からのパリの眺望はお上りさんの第一項と書いているが、わたしはまだこの第一項を済ませていなかったので、今回ようやく果たしたことになる。ただし野上弥生子は、ナポレオンが作らせたこのエトワール凱旋門を芸術的には高く評価していなくて、ハドリアヌスの門の下手な模倣であり、周囲の浮彫が拙く、お手本のローマに対してコロッセオがないのも物足りない、プラタナスの並木道が想像していたよりもずっと小さいと散々こき下ろしている。

そこまで言わなくてもと思うが「門の上からの眺望には、さすがにこの都だけの貫禄と均整があった」と述べているのには同感だ。

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サン・ジェルマン・デ・プレの街角で(オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ六十二)

サン・ジェルマン・デ・プレはサルトルボーヴォワールジュリエット・グレコゴダールトリュフォーたちが集ったパリの文化活動の中心地として知られる。その姿は過去のものとなったが、いまもジャーナリストや演劇人の溜まり場となっているカフェはあるそうだ。

セーヌ川岸からサン・ジェエルマン・デ・プレの商店街に入ったところで、ストリートミュージシャンがジャズを演奏していた。楽器編成に見られるようにオールドファッションというか、フランスらしくいえばヴィンテージなジャズで、昼食はシャンゼリゼでとろうかなと考えていたけれど楽しく素敵なジャズで急遽変更して演奏している対面のレストランの舗道のテーブルでの食事とした。

思いもよらなかったジャズを聴きながらの昼食だった。もちろん感謝の意をこめて少しばかりですけどお金を入れてきましたよ。

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サン・ジェルマン・デ・プレ教会(2015オランダ、ベルギーそしてパリ 其ノ六十一)

「何世紀も前パリがシテ島の城塞都市で、今日のサン=ジェルマン広場では牛が草を食んでいた頃、シテ島の城塞を最初に出た人人の一部がセーヌ左岸沿いに住みついた」。やがて河岸からすこし南をセーヌ川に平行するユシェット通りには配達車、ペダルを踏んで走らせる間に合せの車、行商人の手押車、刃物砥師、傘直し、乳を取るための山羊の群、界隈の歩行者たちが往来するようになった。

エリオット・ポール『最後に見たパリ』(吉田暁子訳)の記述で、旅行したあと読むと土地の具体的なイメージができているからよく分かるし、うれしい。そして、乏しい金を工面して旅に出たかいがあったと、自分を納得させる。

この地区の中心にあるのはパリ最古のサン・ジェルマン・デ・プレ教会。メロヴィング朝の王であったキルデベルト一世が、聖遺物や王の墓を収めるために建築した教会が原型というから六世紀にさかのぼる。

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