「十二月八日」のあとさき

一九四一年十二月八日からことしで七十八年が経つ。いつだったか、どなたかが、いまの日本の雰囲気を七十八年前の十二月八日のまえに似ていると語っていた。そのときはいくらなんでも心配のし過ぎだろうと思って気に留めなかったが、先日、堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』を読み、そこにある開戦前後の記述に必ずしもそうではないかもしれないと感じるところがあった。

戦前には支那事変といわれた日中戦争は一九三七年七月七日の盧溝橋事件にはじまった。事変といっても実質は戦争にほかならず、日本側の見込み、思惑は外れてだんだんと泥沼化の様相を呈していたうえにわが国は米英との戦争に突入した。

当時慶應の学生だった堀田善衛は、開戦に際し武者小路実篤が、袋小路のような支那事変は実に憂鬱であったが真珠湾の一撃によって天の岩戸にも比すべき夜明けが来た、と述べていたのを回想している。

武者小路のいう「憂鬱」な戦争、それは中国にたいする執拗、陰湿な侵略、謀略の絡んだ大義のない戦争と解してよいだろう。この「憂鬱」を追い払ったのが「真珠湾の一撃」だった。

「もはや大東亜の天地から米英は駆逐され、さらに我国自身も多年政治に経済にまたは心理の上で圧迫を蒙って来た傲慢な二大強国を倒すことによつて新たに生れ変わらうとしてゐる」と書いた中村光夫日中戦争には言及していないが、ここからも十二月八日の開戦に暗雲の晴れた気がした、あるいは暗いトンネルから抜け出た気分がうかがわれる。

堀田の知る左翼崩れの人たちのなかには「十二月八日以後はさっぱりした、さっぱりした」と触れ回っている連中がいた。堀田はかれらを批判的に見ていたが「さっぱり論」に例外があって「あの憂鬱な、どこまで行ったらどう解決するのかわからぬ、五里霧中の支那事変というものが、こういうかたちでさっぱりと解決した、というはなしは、この方はいくらかはわからぬではなかった」と書いている。

これらを突き詰めてゆくと日中戦争、太平洋戦争の基本的性格がひとつは植民地侵略戦争であり、もうひとつは英米帝国主義にたいする戦争であったことがよく理解できるだろう。堀田のいう「さっぱり論」は前者を疑問視もしくは否定していた人々が後者を局面転換の機会として認める議論だった。

支那事変に懐疑し、納得しかねるうえに出口のまったく見えないところまで来てしまったと考える人たちに米英との戦争は相手に不足はなく、心機一転やさっぱりした感じをもたらしていたのだった。

そのことを念頭に置いて冷戦終結から三十年が経過した世界のいまを見ると世界の分断、軍拡競争、テロ、軍事衝突の危険性はかえって増しているようである。イスラム過激派によるテロ、ヨーロッパへの難民の流入、新たな冷戦とも呼ばれる米露関係、核拡散と破綻した状況にある核軍縮、米中の貿易摩擦、進展のない拉致問題、たび重なる北朝鮮によるミサイル発射、高齢化と人口減少からくる将来の生活不安といったニュースに接していると、出口の見えない暗いトンネルにいるような気分になるのは否定できない。そうして、もういい加減、さっぱりしたいといった気分はすぐそこにあり、その延長線上には北方領土をめぐり「一撃」を求めた国会議員がいる。

「袋小路のような支那事変は実に憂鬱であったが、真珠湾の一撃によって天の岩戸にも比すべき夜明けが来た」の「支那事変」と「真珠湾の一撃」をカッコにして何かを代入すると、近未来のわが国の姿になる恐れはないのだろうか。杞憂であればさいわいだけれど、歴史は繰り返すともいう。

こうして、いまの日本の雰囲気を七十八年前の十二月八日のまえに似ているといった感じ方は必ずしも荒唐無稽や突飛な話ではないかもしれないと思ったしだいである。