喉元過ぎれば・・・(関東大震災の文学誌 其ノ十四)

関東大震災からやがてひと月が経とうとしている九月二十九日寺田寅彦はベルリンに留学中の小宮豊隆への長文の書簡で地震被害が大きくなった要因について述べている。
〈今度の地震は東京ではさう大した事はなかつたのです。地面は四寸以上も動いたが振動がのろくて所謂加速度は大きくなかつたから火事さへなかつたら、こんな騒ぎにはならなかつた、死傷者の大多数はみな火災の為であります。火災を大ならしめた原因は風もあるが地震で水道が止まつた事、地震の為に屋根が剥がれて飛火を盛にした事、余震の恐怖が消防活動を萎微(ママ)させた事なども大きな原因のやうです。〉
このうち水道については外国の事例を引くまでもなく安政の江戸地震で壊れた先例があるから、その反省に立ってしっかりした対応策がとられていたならばあるいは被害をすくなくできたかもしれない。
水道が壊れたときは次善の井戸といってもこの時点で多くは不衛生として埋め立てられてしまっていた。これについて寅彦は「石油ランプ」という随筆にこう書いている。
〈一体に吾々は平生あまりに現在の脆弱な文明的設備に信頼し過ぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流や瓦斯の供給が絶たれて狼狽する事はあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっと甚だしい、もっと永続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にあることは考えない。〉
「時事雑感」においても「人間も何度同じ災害に遭っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくとも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである」と同様の趣旨を述べている。

「文明的設備」への過度な信頼と喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう健忘症が組み合わされていつもいつもおなじ災害に遭っている。そうして「二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのである」。(「津波と人間」)。
大震災で寺田寅彦が覚えたと同様の衝撃をのちのドイツ文学者で当時東京帝大文学部一年生だった手塚富雄が「意識における震撼」として語っている。
〈私たちはいままで、私たちを守り、私たちを利する文明の絶対的な威力を信じていた。私たちは現代に生きるわれわれこそ、われわれの生活を意のままに処理しうる進歩の頂点に立っていると思っていた。そうしてそういう現代の威力は、顕在的にも潜在的にも自然を制圧して、私たちが物語などで聞きつたえていた寛政、安政の大地震のようなものは、もはやとうてい今日には起こりえない過去の亡霊にすぎない、という気持であった。火災を消すにも、われわれは水道の豊富な水量の力を実験していたから、昔風な井戸は、非衛生な邪魔者でしかなくなり、物ぐさな家でないかぎり、つぎつぎに埋め立ててしまっていた。
ところがわれわれの過信していたその文明の威力とわれわれの賢明な態度が、いかに薄弱な基礎のうえに立っていたものにすぎなかったかを、いまわれわれは一朝にして思い知らされたのだ。すべては壊滅しうるものであり、安定しているものはなにもなかった。〉
手塚富雄『一青年の思想の歩み』一九五一年。引用は『日本の百年6 震災にゆらぐ』)より。

昨年七月二十三日に提出された東京電力福島第一原発事故に関する政府の事故調査・検証委員会(畑村洋太郎委員長)最終報告書には「東電も国も安全神話にとらわれていた」「深刻で過酷な事故は起こりえない」「危機を身近で起きる現実のものととらえていなかった」とある。
関東大震災からおよそ九十年、当時の東大文学部一年生の所感を、いま政府の事故調査・検証委員会が繰り返している。むかしからわたしたちはこの「定型」を繰り返してきたのだ。「定型」はすでに丸山眞男のいう「古層」となっているのかもしれない。苦い経験の反省とは何と難しいことか。

寺田寅彦が「文明的設備」への過度な信頼とともに指摘した喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう健忘症はどうだろう。震災から十年、一九三三年(昭和八年)二月に発表された「銀座アルプス」で、寅彦は、二十世紀の終わりか二十一世紀のはじめまでにはもう一度関東大震災が襲来するだろうが、そのころの東京市民は大地震のことなどきれいさっぱりと忘れて災害を助長するような施設も増えているだろう、だからこそ人びとが大災害のことを忘れ、災害助長の施設をつくったりするのをチェックするのが地震国日本の政治家の大事な務めだと述べ、しかし現状は政治家のなかに地震と国の安危とを結びつけて問題にする人はないようであるとつづけている。関東大震災と「銀座アルプス」を書いたわずか十年のあいだで政治家のなかに地震と国の安危とを結びつけて問題にする人はないようだと憂慮とともに書かなければならなかった。