漱石と相撲

『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』(ゆまに書房平成四年)に収める鈴木三重吉「寺田さんの作篇」に、ある日夏目先生のところへ伺うと、先生は「今寺田が帰つたところだがね、僕がアインシュタインの原理といふのは大体どういふことかねと聞いたら、それは話したつて先生には分らないな。と言つたよ」と苦笑されたとあった。

あっけらかんとした人間関係であり、安倍能成が、漱石門下での寺田寅彦の扱いは「お客分格」で、夏目先生は若い者たちの美点と長所とを認められたけれども、寺田さんに対する尊敬は別であったと述べているのはこうしたところにも現れているようだ。

鈴木三重吉は寅彦の人間像について、われわれの周囲の、すべての自然、人間、人間生活に関する普通の現象について科学的、思索的であり、そこにはナイーブでヒューマンな抒情詩的な感性が同居していると論じた。

また随筆については、むつかしい科学方面の学者は、文芸方面ではこみいったむつかしい理屈なぞ微塵もいったことがなく、特徴的なのは科学的頭脳、個性的な着目と追求、それをわかりやすく説く、と指摘している。そういえば寅彦自身、科学者と呼ぶ合理主義者のほうがふさわしいといっていた。

残念なのはわたしが寅彦の科学方面の著作を読めない、読んでも理解できない点で、ここは悔しまぎれに漱石とおなじく、と書いてなぐさめとしておこう。

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内田百閒『追懐の筆 百鬼園追悼文集 』(中公文庫)によると小説家、児童文学者また児童文化運動に尽力した鈴木三重吉は「頬の皺のひだが深く、意地の悪い顔」をしていて、 秋山好古大将によく似ていたそうだ。百閒は一時期陸軍士官学校に勤務していたから秋山大将の顔はよく知っていた。

その『追懐の筆 百鬼園追悼文集 』の森まゆみさん執筆の解説に「寺田寅彦は一八七八年高知生まれ、熊本の五高時代からの漱石の最も年長の弟子である。兄弟子という感じかもしれない」とあった。ふるさと高知のわたしの家は寅彦の育った家とそれほど遠くなく、長年ここが寅彦の生家だと思い込んでいたが、何かで寅彦は高知県出身だが出生地は東京と知った。

「明治十一年十一月二十八日 東京市麹町区平川町五丁目で生まれた」『寺田寅彦全集 文学篇』第十八巻年譜

ついでの話になるけれど、内田百閒は秋山好古大将の自宅のある目白台の高田老松町の屋敷町を友人と酔って練りいた騒いた際、ご近所に何かの翻訳をした方がいて「おいおい、ここだぜ」「ここが日本一の誤訳の大家のお住まひだよ、わつははは」と騒いだ。

ここのところで森まゆみさんの解説に「この家がどこで誰か私は分かるが、あえて書かないでおく」とあった。自分の持ってる知識だけど読者には教えてあげない、こんな書き方をするのなら、はじめから話題にするほうがおかしい。そもそも触れるべきではなく、嫌味な感じしか残らない。

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二月五日。ようやく風邪が抜け、ランニングを再開した。三月三日の東京マラソンはリタイアを織り込んだ出場となるが、fun runningもまたよいではないか。

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もうひとつ『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』の話題を。

圓地文子が「寺田先生の『高さ』」に「背の高い先生が頤を少し上向けた特徴のある姿勢で、真直ぐに街を歩いていらつしやるお姿がはつきり心に浮ぶと、私は先生のいらつしやらない世の中を、少し色あせたと思ふ程、わびしい雰囲気に閉ぢられてしまふ。」と書いている。

作家の的確な表現が心を打ち、わたしもわびしい雰囲気に閉じられてしまうほどだ。

その「頤を少し上向けた特徴のある姿勢で、真直ぐに街を歩いていらつしやる」ひとがある日の銀座の街を「(映画館の)邦楽座を出て例の橋を渡りながら西の方を見ると、雨上りの空に夕やけがして、スキヤ橋の上に紫色の富士山のシルエットが浮き上り両岸のビルデングが蒼く紫に美しい色彩のマッスとなつて重畳して居た。(中略)一人でニヤニヤしながら裏通りをくゞつて松坂屋の前迄出た頃は暮色蒼然、街頭の燈光水の如くであつた」と、教え子で海外留学中の藤岡由夫に宛てた手紙に書いている。このあと、ホームシックを起こしてはいけないと続くけれど、こんな文章を読まされたら郷愁は増してしまいます。

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手許に『ワードパワー英英和辞典』という辞書がある。名前の通り英英辞典に和訳がついている。増進会出版社刊2002年2月初版第1刷。便利な辞典だが絶版になっていて、「日本の古本屋」のサイトでかろうじて一冊見つけて購入した。語義や例文のほかにカコミのツッコミ記事があり、これが面白い。

以下泥棒について。thief(通常、暴力を働かないでこっそりと物を盗む人に対していう。そのような犯罪はtheft〈窃盗〉という)。robber (銀行や店などから盗みを働き、暴力または脅迫をすることが多い)。burglar (多くは夜に家や店などに侵入して物を盗む)。

shoplifter (店が開いているときに押し入り、金を払わないで物を持っていく)。mugger(路上で人から盗みを働き、暴力または脅迫をする)。俗に泥棒は人類最古の職業の二つのうちの一つとされているからか、用語法も厳格である。ついでながら物を盗むのはsteal、強奪はrob。

もうひとつ。riceは一語で日本語の「もみ、稲苗、稲、米、飯」に相当し、生育の各段階、さらに調理後まで表す。対して日本語の牛肉に相当する英語はbeefだが牛の部位によってchuck, brisket, fillet, plate, flank, rib, sirloin, shank, roundといったふうに細かい分け方で呼ばれる。米食中心の食文化と肉食中心の食文化がそれぞれ言葉に反映している。

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戦時中、溝口健二監督は「元禄忠臣蔵」を撮ったのは知っていたものの、フィルムの有無を含め、それ以上のことは知らず、わたしには幻の名画だった。ところが先日U-NEXTを眺めていると「元禄忠臣蔵」前篇、後篇が(1941、1942年)あり、さっそく視聴に及んだ。

原作は劇作家真山青果、脚本は原健一郎と依田義賢。前篇は討ち入り前、後篇は討ち入り後だから討ち入りのチャンバラは中抜き、皆無という大胆な構成なのに、アクション大好きなわたしでも惹きつけられた。流麗なカメラワーク、練られたセリフ(フィルムが古くいささか聞き取りにくいけれど)、松の廊下をはじめとするセットなどなど。

ワンシーン、ワンカット、長回しの凝った映像は流麗にして格調高く、これぞ溝口健二なのだった。ラストをまえにとつじょお小姓姿に身をやつした高峰三枝子が登場し、切腹に臨む磯貝十郎左衛門との悲恋のエピソードが描かれる。戦意高揚映画として製作された作品にこのシーンを組み入れたのは溝口の硬骨漢ぶりの表れなのだろうか。さっそく真山青果の原作を古書店に注文した。

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日中戦争が勃発したのは一九三七年七月七日。山中貞雄召集令状が届いたのは八月二十五日、続いて小津安二郎が九月十日に近衛歩兵第二連隊に歩兵伍長として入隊した。小津の入隊の前日には壮行会が催され、入隊当日は日の丸の小旗がうち振られるなか小津は連隊に歩を進めた。見送りのひとりに田坂具隆がいて、まもなく自分も応召されるだろう、ならばそれまでにぜひともよい作品を撮りたいと心に誓った。それが一九三八年一月に公開された「五人の斥候兵」だった。尾形敏朗小津安二郎 晩秋の味」(河出書房新社)にある「五人の斥候兵」の製作エピソードで、この作品がAmazon Prime Videoにあった。「元禄忠臣蔵」に引き続いてのお宝発掘である。

日中戦争の初期。その部隊は二百人の半数まで失いながらも攻略を終えた。そうして軍曹と部下四名が敵軍の現状を探る任務に就き、敵のトーチカを発見したがかれらはすでに敵軍に四方を囲まれてしまっていた。

劣化の激しい作品ながらカメラワークがとてもよい。ただし陸軍賛美と戦意高揚色が強くて、キネ旬一位の評価は相当に時代が作用していると思った。もっともわたしが見たのは戦後米国に接収され一九六八年に返却された新版公開版でオリジナルフィルムは現存していない。

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丸谷才一の創作集『横しぐれ』は一九七五年(昭和五十年)講談社から刊行されている。わたしが『笹まくら』を読み感銘を受けたのは七十年代もだいぶん終わりのほうだったから「横しぐれ」(初出は「群像」昭和四十九年八月号)を手にしたのはおなじころか八十年代はじめだったと思う。

語り手の父と、父の友人の黒川先生とが、太平洋戦争がはじまった前年の晩秋初冬のある日、道後の茶店で行き会った酒飲みの乞食坊主がいて、ひょっとすると種田山頭火(1882-1940)ではなかったか、といったところからはじまる推理また追跡劇の色彩をもつ名篇で、わたしはこの小説で無季自由律俳句を旨とした山頭火という俳人と、その関係でおなじ荻原井泉水門下の無季自由律俳句をよんだ先人尾崎放哉(1885-1926)を知った。

しかしながら尾崎放哉についてはときに気になるばかりで四十年以上が過ぎ、ようやく先日、吉村昭『海も暮れきる』でその生涯をたどることができた。一高、東大出身の学歴エリートながら生命保険会社を二度しくじり、妻に去られ、流浪の身となった風狂俳人である。

『海も暮れきる』に併せて石川桂郎俳人風狂列伝』(河出書房新社、元版は昭和49年角川選書)を参考とした。本書で扱われた俳人は目次順に高橋鏡太郎、伊庭心猿、種田山頭火、岩田昌寿、岡本癖三酔、田尻得次郎、松根東洋城、尾崎放哉、相良万吉、阿部浪漫子、西東三鬼の十一人、高橋、岩田、岡本、田尻、相良、阿部は名前さえ知らなかった。また、どうしてこの人がここにはいっているの!?と意外だったのが松根東洋城だった。

松根東洋城(まつね とうようじょう、1878~1964)については漱石門下の優等生のイメージがあったが、この人には瞠目の女性問題があり「列伝」にランク入りしたのだった。

漱石門下では、平塚らいてうとの自殺未遂事件ほかいくつかの女性スキャンダルがあった森田草平がいるがもうひとり大物がいたことになる。

松根東洋城は一高から東大、転じて京大法科を卒業、一九0六年宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任し、一九一九年退官した。早期退官の原因はおなじ宮内省式部官の某男爵の妻との不倫だった。

俳人風狂列伝』には東洋城も相手の夫人も真剣な恋であり、東洋城は自分の人生まで賭けた恋だったとあるが、このあと「ただ女癖の悪さについては、男爵夫人の場合とちがってのちのち種々の女性問題を起こしている」と記述されている。

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松根東洋城の不祥事はさておき、漱石門下いちばんのお騒がせ、森田草平漱石との相撲をめぐるやりとりが松浦嘉一「木曜会の思い出」(『漱石追想岩波文庫所収)にある。漱石相撲ファンで、よく足を運んでいて、あるとき草平が「相撲を面白く見ている人は、大抵、満足な生活を果している人ばかりのような気がするね。僕は、金に少しも苦労がない人達ばかりのような気がするが、どうです、先生」といえば漱石は「そうだろうよ。九州あたりから業々、見にくる人もあるんだからね。すると、又馬関あたりの芸者が、その人の跡を追って、東京へやってきて、一緒に相撲を見ているんだからね。世の中にはいろんな酔狂があるもんだね。僕は相撲を見ていて、時々、果して人生はこれでいいものかと思うね、あははは……」と答えた。

わたしはここ数年、東京での本場所の一日は国技館へ通っていて、自分では相撲ファンのはしくれと任じている。ビールを飲みながら相撲を観戦するのは至福のひとときで、大一番は別だが、仕切りの時間は心をゆるく、ゆったりしてくれる。「果して人生はこれでいいものかと思うね」という方には「よいのですよ」と答えておこう。

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 二月二十九日。東京マラソンのエントリーに東京ビッグサイトへ行って来た。ここはわが家からずいぶん遠い。自宅から上野まで歩き(20分)、山手線で新橋へ(8分)、そうしてゆりかもめ東京ビッグサイト駅へ(22分)、これに乗り換えと待ち時間が加わる。毎度のことながらホントやれやれで、本番より疲れるのじゃないかという気になる。エントリー会場では観光を兼ねたとおぼしい外国人ランナーがずいぶん多くいたようだった。

来年、わたしは後期高齢者に分類される。ずいぶんとタイムは落ち、レースとりわけフルマラソンは厳しい。以前は長距離走は完走できなかったら終わりと考えていたけれど、だんだんと、むやみに完走にこだわらず行けるところまで行ってみようといった気持が強くなってきている。

高齢者のスポーツのありかたについてはあれこれ考えているがなにしろ空前絶後、はじめての体験なので見極めをつけるのは難しい。