『映画プロデューサー風雲録』

大島渚山田洋次をふくむ十人の助監督が松竹大船撮影所に入社したのは一九五四年(昭和二十九年)四月、その五ヶ月後の九月に升本喜年(ますもと・のぶとし)という日大芸術学部を経て早稲田の大学院で演劇を専攻した青年が同撮影所のプロデューサー助手として採用された。
升本は以後、テレビ部門やシナリオ研究所所長の時期をはさみながら、ほぼ一貫して松竹映画の企画製作部門で力を発揮した。プロデューサーとして名前がクレジットされているかどうかは別にして手がけた作品を挙げると「大根と人参」「男の顔は履歴書」「宮本武蔵」「砂の器」「蒲田行進曲」などがあり、ほかにも「アンコ椿は恋の花」「コンと55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ、三百六十五歩のマーチ」など多くの歌謡娯楽映画にも係わった。
入社した年の松竹作品では「二十四の瞳」が大きな反響を呼んだ。おなじくその前年からこの年にかけて「君の名は」三部作が大ヒット、また前年の秋には「東京物語」が高い評価を受けた。松竹以外でも「七人の侍」「浮雲」「警察日記」「血槍冨士」「夫婦善哉」などがあり、このころ日本の映画界は全盛期にあった。やがて映画界は斜陽から衰退の時期を迎え、升本も一九八二年の「蒲田行進曲」を最後に映画プロデュースへの関与を終えた。
田宮二郎山田五十鈴の評伝など映画に関する本も多く書いているこの元プロデューサーは昨年の十月自身の軌跡をたどった著作を公にした。それが『映画プロデューサー風雲録』(草思社)だ。

大船撮影所をめぐる本は数多いが小津組が突出していて、木下組でさえその点数は比較すればずいんぶんとすくない。著者はといえば、「大根と人参」以下の作品からもわかるように小津組、木下組とはほとんど縁がなく、そこで本書は大船撮影所のこれまであまり触れられてこなかった一面の貴重な記録となった。
たとえば城戸四郎に能力の見極めをつけられ面接を願い出ても無視されていた巨匠渋谷実の晩期の苦闘。その屈辱(あるいは城戸は渋谷をこういうかたちで叱咤激励していたのだろうか)に耐えながら渋谷は小津安二郎記念作品と銘打てば城戸は拒否できないと小津と野田高伍による脚本「大根と人参」の企画書を提出する。経営者城戸の苛酷に対峙する渋谷のしたたかさと執念だった。
しかもその前段で、野田高伍から「渋谷さん、墓場で眠っている人間の名前を利用しようなんて薄汚い根性はよしたがいい。あなたらしくない。そんなものに頼らず、堂々とあなた自身の作品を作ればいいじゃないですか」「会社の金儲けの旗振り映画作って、太鼓叩くんだったら、まるで街のチンドン屋だ。映画監督渋谷実の意地も誇りもありゃしない」とまでいわれている。これに渋谷は「失敗するかも知れません。いや、大惨敗するでしょう。だけど、それならそれで、『大根と人参』を撮って散華させてください。お願いします」と応じた果ての行動だった。
これとは反対に、豊かな才能を活かしていないと罵倒された監督がいた。野村芳太郎である。ある酒席で野村は泥酔したシナリオライター池上金男(のちに『四十七人の刺客』の池宮信一郎)から、ここのところのあなたはコント55号水前寺清子ハナ肇などを使ったシャシンばかりだ、そのほうが会社のお偉いさんは喜ぶだろうが、いいかげんに止すべきだ、野村さんらしいちゃんとしたものを撮らなきゃ駄目、そうして返す刀で「おい、升本キネン(中略)野村さんに散々甘えて散々利用している」と斬りつけた。同席していてはじめは止めにはいってくれていた監督の舛田利雄もやがて池上に同調した。
著者は二人からの痛烈な批判が胸に突き刺さって野村は相当こたえたのではないかと推測する。それからしばらくして製作本部にやって来た野村監督が申し出た企画案が「砂の器」だった。
ここには松竹のスクリーンの裏側にあって著者が体験また見聞した数多くのドラマや逸話、ゴシップが満載されている。それらは物故者、生者を問わず、歯に衣着せない率直そのもの、遠慮のない筆致で描かれている。大スター、名匠であっても遠慮はない。なかには反論したい向きもあるにちがいない。そのうえでいうのだけれど、人命をイニシャルにしたり持って回った言い方に終始したりした著作に較べてどれほどか清々しい気分に満ちている。著述はこうありたいものだ。