はじめての菊池寛

一月一日。

内田百閒に小学生のころのお正月の思い出を語った「初日の光」という随筆がある。

百閒は一八八九年(明治二十二年)の生まれで、当時尋常小学校の生徒たちはお正月に登校して「一月一日」(作詞:千家尊福、作曲上 真行)という唱歌を歌った。

「歳の始めのためしとて、終はりなき代の目出度さを、松竹たてて門毎に、祝ふけふこそ楽しけれ」。

新年のおめでたい気分が相まってだろう、ずいぶん変え歌が作られていて、そのひとつに「歳の始めのためしとて、尾張名古屋の大地震、松茸ひつくりかえして大さわぎ、芋を食ふこそ楽しけれ」というのがあった。

これを笑い話で済ませられるとよかったが、きょう起きた能登半島地震を思うとなにやら不気味ですらある。

ついでながら「お正月」(作詞:東くめ、作曲:滝廉太郎)は「もういくつ寝るとお正月」と新年を待っている唱歌で、こちらもずいぶん多くの替え歌が作られていて、Wikipediaには、お正月に餅を食べて腹を壊したり、のどに詰まらせて死んでしまい救急車や霊柩車が来るという内容の歌詞の替え歌が流布しているとあった。

           □

伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋)に連続ドラマ「Pachinko パチンコ」(原作はミン・ジン・リー)が紹介されていた。ほかにも日本統治下の朝鮮を舞台とする「ミスター・サンシャイン」「シカゴ・タイプライター 時を越えてきみを想う」「マルモイ ことばあつめ」に言及があった。

困ったことにいずれの小説、ドラマも知らず、日本のドラマではNHKが製作した伊藤野枝の生涯を描いた「風よあらしよ」が紹介されていた。とりあえずオバマ元大統領が絶賛するミン・ジン・リー『Pachinko パチンコ』(文春文庫)を買ったがいまのところ積ん読状態で予定が立たない。

なお「風よあらしよ」について伊藤彰彦氏は、保守的なNHKではじめて関東大震災の日本人による朝鮮人虐殺を取り上げたドラマとしたうえで、一九二三年九月一日の関東大震災から五日後、千葉県福田村で香川県被差別部落からやって来た行商団九人を朝鮮人と断じて虐殺した事件「福田村事件」(森達也監督)と関連づけて論じていた。

なお年末にテアトル新宿でみた「福田村事件」はじっさいに起きた事件の綿密な考証を踏まえた再現で、不覚にもわたしはこの作品ではじめて事件を知った。

           □

一月十日。 ことしになってはじめての映画館、ヒューマントラストシネマ有楽町でツチヤタカユキ原作「笑いのカイブツ」をみて大いに刺激を受けた。

わたしの映画館通いは喫茶店での読書と音楽、晩酌と一体なので、あだやおろそかにはできない。きょうは映画のまえに菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)を読み、一段落したところでイヤホンをつけてテディ・ウィルソンのアルバム「For Quiet Lovers 」を聴いた。 テディ・ウィルソンは大好きなピアニストだが、ベニー・グッドマンレスター・ヤングとの共演と比較するとトリオやソロでの演奏を聴く機会は少ない。なかで例外のひとつが「For Quiet Lovers 」でジャケットもとても素敵だ。

f:id:nmh470530:20240226031926j:image

           □

菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』 に収める「忠直卿行状記」に「殿のお噂か!聞こえたら切腹物じゃのう」「蔭では公方のお噂もする。どうじゃ、殿の(槍術の)お腕前は?」というくだりがある。この会話がたまたま通りかかった殿の忠直卿の耳に入った。家来たちは知らないままに本当のところを口にし、忠直卿は周囲から誉めそやされていた自身の武道の腕前が虚構のものだったと知り、苦悩の淵に落ちたのだった。

ことわざ「陰では殿の事も言う」は知っていたが、殿のところに公方(将軍)を代入した言い回しがあるのははじめて知った。

京極純一先生の名著『文明の作法』(中公新書)は「面白うてやがて悲しき井戸端会議」と「陰では殿の事も言う」を一対にしていう。真理と正義という崇高な理念は別にして噂話や陰口には、古来、人類を惹きつけてきた絶大な魅力があり、いかに美味であるか、人はひそかに知っている、そして噂話や陰口は他人の観察と見えてじつは他人というスクリーンに自分の内心を映写している場合も少くない。

「噂話、陰口、井戸端会議などは、真理と正義をめざして点火し、スリルと快感のうちに火勢が強まる。そして、本来語るべからざる内心を、不覚にも、他人の前で映写した悔恨のうちに、陰湿な幕を閉じる」

ところが「忠直卿行状記」では内密だったはずの殿の噂話、陰口が当の殿の耳に聞こえたために幕は閉じず、 忠直卿、家臣ともに行く末は大きく狂ってしまう。

           □

映画のあと帰宅して八代亜紀さんの訃報に接した。

二0一九年に亡くなった萩原健一のときもそうだったが同年の方の死亡はいささか心の振動を大きくする。彼女については昨年十一月十日付、本ブログの日記に《先日、八代亜紀さん(73)が膠原病を患い療養のため年内の活動をすべて休止するというニュースがあり、彼女の快癒を願い、締めに「八代亜紀 服部メロディを唄う」というアルバムを聴いた。/そのとき、早いもんだなあ、彼女もそんな年齢になったんだと感慨にふけったが、なんだかみょうにおかしい。しばしして、そうか、自分もおなじ歳なんだと気づいた。一時的に年齢も時の流れも蒸発したのか、それとも認知症が関係しているのだろうか。》と書いたばかりだったのに。

晩酌をしながら彼女のオリジナルのヒット曲とジャズを聴いた。ジャズでは「夜のアルバム」にある「枯葉」がお気に入りで、日本語による「枯葉」では出色のものと評価している。

           □

昨年、終活の一環として運転免許証を返納した。その折り、スマホの電話はこちらからかけるときのほかは使わないと決め、機内モードをもっぱらとした。もともと交際の広いほうではなく、家族や親しい人たちとの連絡はLINEとメールで足りる。

電話は便利だが、あくまで当方に用事があって連絡したいときであり、用もないのに新聞の勧誘や新築マンションのコマーシャルの電話がかかってきたりするのはいただけない。といったわけでもう電話は要らないと結論した。十余年の無職渡世でようやく懸案のひとつを片付けたしだいである。

           □

一月十八日。木曜日。朝いちばんで病院へ。昨日の午後から電気カーペットに座っていても下半身が震えるほどの悪寒と吐気に襲われ、さすがのわたしも食事をする気にならず早々に床についた。自宅の非接触型の体温計では熱はなく、病院でも同様だったので薬は飲まなくてもよいような話だったが、不安なので葛根湯をいただいてきた。 

じつは朝起きたとき吐気はまったく治っていて、医師には悪寒についてだけを話し、吐気は忘れていた。ところが夕食後断続的に吐気に襲われ、食欲が著しく減退した。

           □

一月二十日。土曜日。再度病院へ行き、風邪が腹部にきている(流行っているとの由)との診断を受け、薬が変わった。三種類もある。十八日に吐気の話をしなかったのは一大不覚であった。 

           □

一月二十一日。ここ数年、恒例となった大相撲初場所中日の観戦で国技館へ。二時過ぎに入り、打出しまでゆったり、のたりの時間を過ごした。久しぶりに照ノ富士の土俵入りを見て、やはり相撲は横綱がいなくちゃとの感を強くした。 

f:id:nmh470530:20240221135712j:image

とりあえず吐気は小康を保っているものの消化力が衰えているのでわずかずつしか食べられない。国技館では一行四人でビールを飲みながらの観戦だったが、わたしは緊張しながらちびりちびり飲み、おつまみも少しずつという状態だった。そのため打ち出し後の飲み会は欠席した。残念。

相撲余話。

ある会合で、イギリス人が関取に「アナタ、タクサン、ビッグ。ワタシ、スモール」とたどたどしく話しかけると、関取「ワタシも、スモー」と相手になるぞと着物を脱ぎかけ、英語のわかる人がなかにはいった。星新一『夜明けあと』にある話で、明治七年の新聞記事より。

           □

一月二十二日。歌舞伎座昼の部へ。プログラムは「當辰歳歌舞伎賑」「荒川十太夫」「狐狸狐狸ばなし」、華やかな舞踊と、赤穂義士外伝と、狐と狸の化かし合いのお笑いというナイスな演目に満足。

f:id:nmh470530:20240221135916j:image

夕方から神保町のお蕎麦屋さんで友人とビール、焼酎を飲んだが消化力はまだ復調途上で用心しながらの一献だった。

           □

一月二十八日。日曜日。ようやく腹の具合が元通りになったのに、今度は喉の具合がよくなく、鼻水、咳が出るようになり、昨日はまたまた病院へ行き、桔梗湯という薬をいただいてきた。さいわい発熱はなく、生活に変わりはないものの、風邪が抜け切るのを待っている状態にある。

きょう大阪国際女子マラソンで前田穂南選手が2:18:59の日本新記録でフィニッシュした。昨年のMGCでお見かけしたこともあってよけいにうれしい。三月の名古屋ウィメンズマラソンで新たな日本新記録が出ない限りパリ五輪三人目の代表選手の座は彼女のものとなる。

そして大相撲は照ノ富士が復活優勝を果たした。場所前、照ノ富士の復活を疑問視していたわたしの予想は覆った。横綱は健在ぶりを示し、また優勝決定戦で敗れた琴ノ若大関昇進を確実にした。いずれもめでたいことである。そして千秋楽の取組の圧巻は宇良が伝え反りで竜電を破った一番で、宇良は今場所を六勝九敗で終えたがこの伝え反りは三勝に価する。

           □

菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)に続いて『父帰る藤十郎の恋 菊池寛戯曲集』(石割透編、岩波文庫)を読了。これまで菊池寛で読んだのはせいぜい何かのアンソロジーにあったエッセイくらいで小説は皆無だった。それが戯曲集まで手にしたのだからおどろきである。べつに避けていたのではないが、永井荷風菊池寛を蛇蝎のごとく嫌っていて食指は動かなかった。それが山本嘉次郎監督「藤十郎の恋」で原作を読んでみようかという気になった。

はじめての菊池寛。『藤十郎の恋 恩讐の彼方に』には歴史に題材をとった十篇が収められている。このうち「藤十郎の恋」は映画とおなじく素晴らしい出来ばえだ。ほかにも「恩を返す話」「忠直卿行上記」「恩讐の彼方に」でグイグイと頁を繰った。ただ「蘭学事始」は若いときから関心のある領域だっただけに物足りなかった。

文庫のカヴァーに「著者は創作によって封建制の打破に努めたが、博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマもまた、その作風の大きな特色をなしている」とある。博覧多読から題材を取り出してくる手法は芥川龍之介と共通している。それと仇討へのこだわりが強烈で、これには封建制の打破のほかに何か理由があったのだろうか。

ついでながら菊池寛の全集はその生地である高松市が平成五年から同七年にかけて刊行していて、わたしはこの全集についてメモを書いた記憶があり、今回むかしの原稿を収めたUSBメモリから取り出してみた。 

 


菊池寛全集(高松市刊行)をめぐって

永井荷風が「伝通院」という随筆に子どものころ小石川界隈で見かけた雪駄直しの思い出を書いたところ、知人から「水平社の禍」がふりかかるかもしれないから避けておいたほうがよい、じっさい菊池寛が小説中に「えたといふ語」を用いて一千円ゆすりとられたと忠告を受けた。荷風はさっそく関係箇所を削除するよう出版社に通告した。

断腸亭日乗』昭和二年十二月三日の記事で、昭和六年当時の内閣総理大臣の給料が八百円で、事実とすれば、けっこうな金額にのぼる「えせ同和行為」である。

この年の十一月十九日には濃尾平野を舞台に実施された陸軍特別大演習後の観兵式で北原泰作陸軍歩兵二等卒が軍隊内での部落差別について天皇に直訴するという事件が起こっており、荷風は水平社について多少なりとも意識していたのかもしれない。

数年前、菊池寛の生地高松市が全集出版を企画しているが、不穏当な用語の使用がけっこうあって困っているというはなしがあった。『断腸亭日乗』にある「えたといふ語」の使用もその一例で、その後、全集刊行がはじまったと聞いたが、差別語問題について編集方針がどうなったかについては調べていない。

くわえて過日、菊池寛が戦争賛美の文章を書いており、高松市の事業としてこうした作品の含まれる全集を出版するのは公金の違法使用であるとして訴訟が起こされたのを知った。

世には、鋭く研ぎ澄まされた人権感覚を身につけた方がいて、その打つ警鐘は貴重である。ただし、ときにその鐘は他人の欠点を衝き、粗相を嗤い、過失を責めたてる響きを持つ。過去の人びとの著作を、差別語使用と戦争賛美というリトマス試験紙に浸し、結果によっては精算し、葬り去ろうとするのはその一例である。高松市という公の機関による『菊池寛全集』の出版がいけないとの主張はやがて私企業の出版社による『菊池寛全集』だって企業の社会的責任という観点からして不可ということになりかねない。

必要なのは不穏当な言葉を削り、戦争賛美の文章を抹消するのじゃなくて、それらを含む菊池寛の作品についていろんな立場や角度から討議討論しようとする社会の気風をつくることだ。平等観や人権意識もそうしたなかで鍛えられてゆくはずだ。

(一九九六年二月)

           □

一月三十一日。二度にわたる風邪の来襲で、身体の調子はもとより、精神的にずいぶん落ち込んだ。いまランニングは中止してウオーキングに切り替えている。三月三日の東京マラソンめざしてこれから距離を延ばそうとした矢先の風邪で、どうやら当日はリタイア含みの参加になりそうである。「fun running」で行けるところまで行こう。