「人生七十古来稀」と前書があるから大田南畝(1749~1823)が七十歳を迎えたときの作だろう。
「一たびはおえ一たびは痿(なえ)ぬれば人生七十古来魔羅なり」
「おえ」は生え、でよいのかな。いま七十歳の老輩が身につまされたのはいうまでもありません。
嵐に悩まされ、暴風雨を抑え込まなければならなかったことは数知れない。反対に必要のないとき出しゃばって来るくせに、大事なときに萎えたりするあの厄介なものとモンテーニュが述べたように、暴風雨の襲来を待っているのに時宜をわきまえない、のたりのたりの海もまた困りものであった。
いま嵐は遠くへと過ぎ去り、わが身に春風はやさしい。すべては恩讐の彼方である。はしたないとみる向きもあるかもしれない。しかし、こうしたことがらを胸襟を開いて忌憚なく語れるのもまた人生七十ではないでしょうか。
大学で受講した田辺貞之助先生の『フランス小咄大観』にこんな艶笑譚があった。
生物学の教授による口頭試問。「人間の身体に、二十回も連続的に伸びたりちぢんだりしても、全然疲労を感じない部分があるが、どこですか」。
女子学生は「あたくしの両親はとてもしつけが厳重でして、そういう部分のことを口にするのをかたく禁じられていますから、お応えできません」と答えた。
その学生が退室すると彼女の友人の女子学生が入室し教授がおなじ質問をすると彼女は「それはまぶたです」と答えた。教授は「よろしい、あなたは満点です」そして、先ほど退室したあなたの友人であるお嬢さんについてですが「彼女はもう少し勉強しないと、今後男性に幻滅するだろうと、お伝えください」といった。
知るのは疲労を感じない生えばかりで、萎えるのはご存知なかったとおぼしいお嬢さんがそのあと勉強に励んだか幻滅したかはわからない。でも、どちらにせよ七十ともなればおなじところに着地しているのではないかな。女性のばあい「人生七十古来」のあとに何を書けばよいか詳らかにしないけれど。
古稀をめぐって南畝には微笑ましくめでたい歌もある。
「音楽によせて七十の寿を 古来より稀なる年に笛つづみうちそへてきく千代によろづ代」