コリンヌ・リュシェールの生涯について「別冊太陽・フランス女優」(平凡社、1986年)をもとにたどってみる。
一九二一年二月十一日パリで生まれる。中等教育を三年で止め、俳優、映画監督のレイモン・ルーローから演技を学び、十六歳で舞台にデビューした。一九三八年、十七歳でレオニード・モギー監督「格子なき牢獄」でスクリーンに登場して大きな人気を博した。同年おなじ監督で「美しき争ひ」、翌三九年には「第三の接吻」「最後の曲がり角」に出演したが戦争と占領のために女優業から遠ざかった。
父親はナチ占領下で対独協力者として名を知られ、解放後銃殺されたジャーナリスト、ジャン・リュシエール、その娘だったこともあり、彼女はナチ高官の情婦だったと噂され、戦後投獄され獄中で結核を患った。一九四八年に釈放されたが一九五0年一月二十二日にこの世を去った。なお後述する鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』は命日を一月二十三日としている。
「別冊太陽」の翌年「文藝春秋」別冊として「女優 わが青春の女優たち」が刊行されていて、本誌のコリンヌ・リュシェールの紹介では、十四歳のときマルク・アレグレ監督の目にとまってエキストラ出演するなど「格子なき牢獄」以前にも何本かの映画に出演していたことが述べられている。
「格子なき牢獄」で熱狂的な支持を受けてからの記述は「別冊太陽」と重なる。ただしここでは「ナチ高官の情婦だったとの噂」は噂でなく断定的で、「保身のためナチの高官の妾となった彼女は戦火をよそに贅沢な生活を送った。そのため解放後は対独協力者の烙印を押され投獄され」たとある。
コリンヌ・リュシェールについてわたしが知る唯一の単行本は鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』(文藝春秋1980年)だ。そこで本書により、彼女の結婚と最期についてしるしておこう。
コリンヌが結婚登録証にサインしたのは一九四一年十二月二十七日だった。相手はモロッコ出身の貴族ギイ・ド・ボワサンという男。父のジャン・リュシェールが創刊した夕刊紙「新時代」の出資者の一人で、おそらくその関係で知り合い結婚にいたったのだろう。
結婚後彼女は結核療養のためにムジェーブという街に赴き、そこでおよそ一年間を過ごした。夫のボワサンは結婚したのに妻が傍にも来てくれない不満を抱き、嘆いたが、コリンヌのほうはもともと冷めていたようで、シャンソン歌手のシャルル・トレネやスキー選手のエミール・アレなどと浮き名を流した。
このような夫婦ではあったが、コリンヌは一九四四年に娘ブリジットを出産していて、鈴木明がコリンヌについて調査にあたった一九七八年から翌年にかけての時点で彼女には会わせてもらえなかったが、その生存は確かめられている。
コリンヌが出産三カ月の娘ブリジットを抱いてドイツに向かいパリを逃げ出したのは一九四四年八月十三日、そして占領されていたパリが陥落、解放されたのは八月二十五日だった。
一九四五年五月、彼女と父ジャン・リュシェールはミラノでフランスのレジスタンス組織に拘留され、父はおよそひと月のちにパリに送られ、娘は結核患者として牢獄から病院に移され、九月になってパリに送られた。
翌年一月、父ジャンはドイツに協力した大物ジャーナリストとして死刑判決を受けた。コリンヌは一貫して対独協力を否定したが認められず六月に市民権剥奪十年の判決を受けた。
戦後のコリンヌに映画出演はなく、一九四九年に『私の奇妙な人生』と題した、おそらくゴーストライターの手になる「自伝」を刊行しているのが唯一女優らしい活動だった。
翌年一月下旬パリ十区か十二区もしくはその近辺で一人の女性が血を吐いて倒れているのを通行人が見つけ、警察に通報した。パトカーでブーローニュにあるアンブローズ・パレ病院に急患としてかつぎ込まれたが、そのときすでに彼女の身体は冷え切っており、呼吸は完全に停止していた。一九五0年一月二十三日深夜、コリンヌは二十八歳の生涯を閉じた。
こうして清純のエロチシズム、素朴で純粋な美しさを謳われた女優は戦後ナチスとの関係を問われ、忌まわしい女優となった。