三ノ輪と雑司ヶ谷にて

昨秋古稀を迎えたのを機に『荷風全集』の再読にとりかかり、併せて荷風ゆかりの地や作品の舞台となった地を訪れている。

先日は三ノ輪の浄閑寺にある荷風の筆塚に詣で、傍にある花又花酔の川柳「生まれては苦界、死んでは浄閑寺」を刻し、吉原の女郎さんを祀った新吉原総霊塔を弔ったあと、都電荒川線雑司ヶ谷に向かった。

荷風雑司ヶ谷霊園に葬られていて、父永井久一郎の墓の並びにある。

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いっぽう彼には、安政の大地震で無縁仏となった吉原の娼妓たちの遺骸が投げ込まれた投込寺の異名のある三ノ輪の浄閑寺に眠りたい思いもあった。

「今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき(中略)余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」

これは『断腸亭日乗』昭和十二年六月二十二日の記事で、ここからおよそ三十年前に訪れたときのことについては「里の今昔」(昭和十年)に触れられている。

「明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果ててゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり、其他の石はみな小さく蔦かつらに蔽はれてゐた」

後出の岩野喜久代によると、荷風が訪ねたこの時期は浄閑寺がいちばん寂れていたころだった。

昭和三十四年(一九五九年)四月三十日に荷風が歿したあと、荷風浄閑寺への思いを汲んだ人たちにより筆塚と「今の世のわかき人々/われにな問ひそ/今の世とまた来る時代の芸術を/われは明治の児ならずや/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり」ではじまる「震災」(『偏奇館吟草』所収)を刻んだ石碑が建てられた。

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岩野喜久代『大正・三輪浄閑寺』(青蛙房)『岩野喜久代随想集 永井荷風浄閑寺 與謝野晶子と荻窪のサロン』(大東出版社)によるとスェーデン産赤御影石の花畳型筆塚には故人の二枚の歯と常用していた平安堂山製白圭の銘の小筆が納められている。これらを建碑実行委員会に寄贈したのは荷風の養子、永井永光氏で、歯は前歯一本と金冠を被せた左方大臼歯一本で荷風の巻煙草ケースのなかに収めてあるのを氏が偶然発見したとのことだ。

また新吉原総霊塔は昭和三十八年十一月に建立されていて、新吉原は明暦の大火(振袖火事)のあと幕府の大規模な区画整理により、日本橋葭町にあった公認遊廓を浅草田圃に移したことからきた名称である。

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岩野喜久代前掲書によると、総霊塔には安政の大地震で犠牲となった娼妓のほかに新吉原創業から売春防止法による廃業までの間に病気になり、衰え果てた末に誰にも看取られることなく亡くなった娼妓たち、また彼女たちの子、遣手婆などを含め一万五千人が葬られており、ほかに関東大震災の吉原花園池における横死者や下町被災者の無縁仏も納められている。ただし遊郭の楼主とその家族は別で、かれらの檀那寺は寛永寺や青松寺などの大寺で、投込寺には目もくれなかった。 

岩野喜久代(明治三十六年一月三日~平成八年三月七日、享年九十三)は歌人、エッセイストで、大正十四年浄閑寺第二十四世岩野真雄と結婚した方である。彼女によると明治以前の過去帳から遊女の本名年齢生国親元を探るのは不可能で、幕府はすべての寺に人別制度の事務を負わせたが遊女は身を売ると同時に戸籍簿からはずされ、記載されているのは法名と死んだ年月日、源氏名もなく何屋売女、女郎、遊女の文字だけとのことだ。

投込寺の呼び名には哀切の情が込められている。

三ノ輪から雑司ヶ谷に向かう都電荒川線で一句

「脚癒やす電車のなかの老いの春」

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