戦時下の「風と共に去りぬ」

マーガレット・ミッチェル風と共に去りぬ』は一九三六年六月に出版されるや、たちまち世界的ベストセラーとなり、翌月にはさっそく映画プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得しました。

映画は一九三九年十二月十五日にワールドプレミアとして公開され、空前の大ヒットとなりましたが日本で公開されたのは敗戦後の一九五二年九月四日でした。

在米の日本人は別にして、戦時下の日本人がこの映画に接する機会はなかった……はずなのですが、どうやらここにも「蛇の道は蛇」の格言は活きていて一筋縄ではいかなかった。

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 一九四三年(昭和十八年)小津安二郎は報道記録映画撮影のため軍に召集され、撮影隊とともにシンガポールに向かいましたが、戦況の悪化により活動はままならず足止めを余儀なくされます。べつに映画を撮る意欲はなく、軍が押収したアメリカ映画の数々を観て暮らしていて、戦局が敵国アメリカの映画を鑑賞するという得難い機会をもたらしたのでした。

そのなかの一本に「風と共に去りぬ」がありました。はじめ音楽は流れているのに画面は真暗なままなのでスタッフのひとりが映写機の点検に走ろうとしたそうです。そのころの日本の映画人は開幕前の前奏曲、オーバチュアを知らなかった。フィルムの耳に音楽を録音しているだけで映像はなし、つまりタイトルが出るまでのほとんど一巻は音楽だけに用いられているなんて、それだけで経済力の格差を思わせるものでした。

高橋治『絢爛たる影絵』には、暗闇のなかで小津は「厚田家、こりゃ、この戦争は敗けだ。こんな国と戦争してちゃ勝てっこないよ」と言ったとあります。厚田家こと小津組の名カメラマン厚田雄春も前奏のところではや打ちのめされていました。同書は小説なのですが小津の発言は正直な気持を表していると思います。

『絢爛たる影絵』からわたしは、戦前の国内では「風と共に去りぬ」は観られなかったのだから日本の映画人でさいしょにこの映画に接したのは小津だろうと推測したのでしたが、これはお恥ずかしい、おっちょこちょいの速断でした。作品公開と真珠湾攻撃までとはおよそ二年の時間があり、開戦後はともかく、この二年のあいだにフィルムが日本に届けられていたのは十分考えられるし、じじつ後述するように届いていたのですが、そのまえにいくつかの証言にふれておきます。

高峰秀子『わたしの渡世日記』には、具体にいつとは書かれてはいませんが「ある日、撮影所でマル秘の試写が行われた。陸軍が南方で押収したという外国フィルムの特別公開だということだった。試写室の内側から厳重に鍵がかけられ、数人の、本物の軍人を中心に映写がはじまった。そのフィルムは、当時の日本では上映を禁止されていたアメリカ映画だった。それも、生まれてはじめて見るテクニカラーの『風と共に去りぬ』と、ウォルト・ディズニー社のアニメーション・フィルム『ファンタジア』の二本であった」とあり、そのときの気持を、しびれるような感動とショックの連続だったと語っています。

おなじく戦時下に「風と共に去りぬ」を観た一人に原節子がいました。戦後になってヴィヴィアン・リーの「哀愁」について感想を語ったなかで「戦争中『風と共に去りぬ』を見て(ヴィヴィアン・リーを)すっかり好きになったんだけど、相変わらず素晴らしい」と語っています。(「映画ファン」一九五一年二月号、貴田庄『原節子 わたしを語る』より)

当時、原節子高峰秀子ともに東宝の所属でした。東宝撮影所での試写は何度か行われていますので二人がいっしょに観たかどうかはわかりません。

当時東宝の撮影所長だった森岩雄も『私の藝界遍歴』でこの試写に触れていて「戦況が日増しに悪くなって来ることは、私の仕事の上からもひしひしと感じられるようになって来た頃、憲兵隊の好意だったと思うが、占領地から押収して来たアメリカ映画を参考に試写させてもらったことがあった。その中にはディズニィの『ファンタジア』、セルズニックの『風と共に去りぬ』、そしてチャップリンの『独裁者』などがあった。『独裁者』にはオランダ語のスーパーインポーズがつけてあったので、インドネシアから持って来たものであったろう。いずれもすばらしい感銘を与えてくれた。関係者にはなるべく見せたいと思って、何度も許された期間のなかで試写をし、私はその都度繰り返しこれを見ることが出来た」

国策映画が成果をあげていなかった松竹ではなく、東宝で試写が行われたところに当時の軍部と東宝との関係や「憲兵隊の好意」が浮かび上がってきます。「燃ゆる大空」(1940)「ハワイ・マレー沖海戦」(1942)「決戦の大空へ」(1943)「勝利の日まで」(1945)といった東宝の戦意高揚、国策映画に比較すると松竹は分が悪かった。小津安二郎は松竹でしたから日本にいれば「風と共に去りぬ」とはご縁がなかったかもしれません。

もうひとつ双葉十三郎の回想記『ぼくの特急二十世紀』にも「『風と共に去りぬ』が日本で公開されたのは戦後ですが、あの映画、一九三九(昭和十四)年には完成していて、じつを言うとぼくは、開戦直前に『駅馬車』なんかと一緒に入ってきていたのを見ていた。すげえもんを作るなあ、とびっくり仰天しましたよ」とあります。

それぞれの回想を時系列に並べると双葉十三郎が開戦直前に観ているからいちばん早い。

ほかにも徳川夢声シンガポールで観た(小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』)とか、変わったところでは東京大学でも上映会があり、学生だった江崎玲於奈が観たといった話もあります。

風と共に去りぬ」を観た人の多くの第一感はびっくり!で、なかには小津と同様、あんなすごい映画を撮る国と戦争したって太刀打ちできるものではないとの思いをもつ人もいました。戦争の行方を占わせるほど威力のある映画でした。

もうひとつ、小沼丹「古い編上靴」(『銀色の鈴』所収)という短篇小説にあった戦時下の「風と共に去りぬ」を紹介しておきます。小説といっても作者の経験をもとに書かれた作品で、映画の上映については事実としてさしつかえありません。

昭和二十年四月東京郊外に住む大寺さん(小説の主人公)は空襲に遭い、勤務先もやられて休業となりました。妻子は実家の信州に疎開していて大寺さんも信州へ行こうと思っていたところに参謀本部の某分室で対外宣伝ないしそれに類した仕事をやらないかという話が持ち込まれます。

大寺さんを作者小沼丹とすると英語、英文学の先生だから語学が活かせる仕事だったでしょう。しかし周囲に賛成する者はなく、大寺さん自身乗気になれず、断りの意思を伝えに神田の高台にある分室を訪れます。こうして大寺さんは信州へ赴いたのですが、参謀本部某分室で思いもよらない光景に接します。

「暗い廊下を歩いて行くと、若い女達の喧しい嬌声が聞えるから大寺さんは面喰つた。同時に英語の会話が大きく聞える。扉が半開きになつてゐたから、覗いて見ると、天然色の映画が映つてゐて、クラアク・ゲイブルのちょび髭が見える。見物人もかなりゐるらしい」。

大寺さんを案内していた方はつまらなさそうに「『風と共に去りぬ』をやつてるんです」「二世の女の子は矢鱈に派手に騒ぎましてね……。なに、捕虜に見せてるんです」と言うのでした。

ここで日本語訳の刊行をみておくと、『風と共に去りぬ』は原作刊行の二年後一九三八年(昭和十三年)六月に河出書房から『風に散りぬ』という邦題で阿部知二訳編の抄訳が、昭和十四年には明窓社から藤原邦夫訳で『風と共に去れり』が、そして一九四〇(昭和十五)年には三笠書房より大久保康雄による全訳が早くも刊行されています。ほかにも昭和十三年から十四年にかけて第一書房から深沢正策訳『風と共に去る』(戦時体制版)が刊行されていたようです。

これら邦訳のヒットにより舞台を日本の幕末期に移した映画化が企画されていたそうです。マーガレット・ミッチェル国務省のウォレス・マクルーアにあてた手紙のなかで「日本で海賊版映画の製作が進んでいると耳に挟みました。 著作権の観点から MGM社が阻止しましたが、この小説を一八六〇年代の日本〔 幕末期〕におきかえて再現すると、 南部連合軍の兵士たちはサムライの鎧兜に身をつつんでアトランタ の攻防戦に乗りだし、スカーレットは軽装馬車ではなく、 リキシャで街を走りまわることになるでしょう。 それはちょっと見てみたいですね」とあります。(一九四〇年八月八日付)」(鴻巣友季子訳『謎とき風と共に去りぬ』新潮社)。

ここで海賊版の映画化から参謀本部の分室で上映されていた「風と共に去りぬ」に話を戻すと、特別な映画ファンではないであろう大寺さんもこの映画の名前だけは知っていました。人気の原作の話題は未公開の映画にも広がっていたことでしょう。

以下余談ながら、

ファシズムを痛烈に批判して衝撃をもたらしたチャップリンの「独裁者」の極秘試写を観た人の感想を知りたいのですが、これまでのところそうした文献にはお目にかかっていません。以上、かいまみた戦時下、日本映画史のひとコマでした。