町で見つけた歴史遺産

ご近所の谷中を散歩していると写真の遺物があった。歴史遺産もしくは文化財としてよいであろう。しょっちゅう通っているところなのにいまごろ気がつくなんて迂闊な話である。

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示されている町名は「上三崎南町」(かみさんさきみなみちょう)」、『日本歴史地名体系』(平凡社)には谷中上三崎南町として立項されている。その起立は一八七二年(明治五年)、廃止は一九六六年(昭和四十一年)十二月三十一日。町名はすでにないけれど不忍通りを挟んで森鴎外旧居のあった団子坂の向かいに三崎坂がある。

隣組は一九四0年(昭和十五年)九月十一日に内務省が訓令した「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)によって制度化されたから、写真の遺産は戦時中に作られたものだろう。「用水」とありとくに防火用とはしていない。防火用水にしては小さい気もするが、ほかには思いつかない。

「とんとんとんからりと隣組」の「隣組」は徳山璉(たまき)のヒット曲で、作詞が岡本一平、作曲・編曲は飯田信夫、 一九四0年六月十七日からNHKラジオ「国民歌謡」で放送された。ご承知のように人気漫画家、岡本一平の妻は小説家岡本かの子、長男は画家の岡本太郎、一平の義弟が洋画家の池部鈞(ひとし)だから息子池部良岡本一平の甥にあたる。

一九四五年三月十日の東京大空襲当時、向田邦子は女学校の三年生で、両親、弟、下の妹(上の妹は疎開していた)とともに目黒の祐天寺のそばに住んでいた。父は隣組の役員をしていて逃げるわけにはいかず、妻と邦子には残って家を守るようにいい、中学一年の弟と八歳の妹には競馬場のあとの空地に逃げるよう指示した。

弟と妹は駆け出そうとした。そのとき二人を呼びとめた父は白麻の夏布団を防火用水に浸し、たっぷりと水を吸わせたものを二人の頭にのせ、叱りつけるようにして追い立てたと、『父の詫び状』に収める「ごはん」にある。

そのときの水もきっと写真とおなじ用水溜にあったと思っている。