2019旅順、大連、錦州(其ノ二)

東鶏冠山北堡塁は帝政ロシアが日本軍の攻撃を防御するため東鶏冠山に建設した堡塁で、日露戦争の激戦地のひとつとなった。日本軍はこの堡塁を奪い、突破するために一九0四年の八月から十二月にかけておよそ四か月を要し、死者は八千人に及んだ。壁面の銃弾痕が生々しい。

なお戦跡保存の塔の正面には次のように刻まれている。(旧字体新字体に直した)

「明治三十七年八月以来第十一師団ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ同年十二月十八日占領ス

陸軍大将男爵鮫島重雄碑銘ヲ書ス

大正五年十月

満鉄戦跡保存会」

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関東軍司令部ははじめ旅順にあった。関東軍の関東は、万里の長城の東の端、山海関の東側、つまり満洲全体を意味する。日露戦争でロシアから獲得した関東州と南満洲鉄道の付属地の守備を担っていたのが関東都督府陸軍部で、一九一九年(大正八年)に関東都督府が関東庁に改組され、陸軍部は関東軍となった。司令部ははじめ旅順に置かれたが一九三一年(昭和六年)の満洲事変のあと「満洲国」の首都新京(いまの長春市)に移転した。

写真は旅順の司令部跡で。

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石碑の簡体字を直すと「粛親王府旧址」つまり粛親王の公館址です。粛親王清朝皇統の縁戚として辛亥革命に反対し、清朝を存続するための活動に従事し、それが失敗してからは宣統帝復辟の企てを続けた人で、その政治的立場から日本の満蒙侵略と結びついた。そしてこの人の娘が「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」こと川島芳子(志那浪人川島浪速の養女だった)である。実父とおなじく清朝の再興を期し,陸軍特務機関の意を受けて諜報活動に従事したとして戦後漢奸として処刑された。一時期、李香蘭とも交友があった。

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日露戦争の激戦地のひとつ二0三高地。現地に、中国語、英語、日本語の紹介文があったので、日本語の部分を紹介しておこう。

203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい、強い争いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」

なお爾霊山(にれいさん、あなたの霊の山の意)は二0三(に・れい・さん)の当て字。

大連の小学校の遠足ではよく日露戦争の戦跡めぐりがおこなわれたそうだ。

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大連大学附属中山医院。かつての満鉄大連病院で、地下一階、地上四階で、延べ面積九万平米は大連における最大規模の歴史建築で、竣工は一九二五年、当時は「東洋一の総合病院」と評されていた。

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