待合の探求

六月十四日。一九四0年のこの日、ドイツの侵攻によりパリは陥落した。ドイツを中心に長年ヨーロッパで報道に従事した米国人ジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーの『ベルリン日記』には「パリは陥落した。ヒトラーの鉤十字の旗は、私があれほどまで深く知り愛したあのパリのセーヌ川エッフェル塔からひるがえっている」とある。

映画「カサブランカ」では、陥落前日の十三日に拡声器がドイツ語で「フランス国民、パリ在住者に告ぐ。フランス国民、パリ在住者に告ぐ。注意して聞くように。ドイツ軍はパリ近郊まで進軍してきている。パリの防衛機能は崩壊しフランス軍は解体寸前だ。落ち着くように。我々が平和と秩序を回復する」と告げていて、それを聞いたイルザがリックに「世界全体の崩壊にあわせてわたしたちは恋に落ちるときを選んだのね」と語る。
この日、二人は十七時パリ発マルセイユ行きの列車に乗るはずだったが雨の降るリヨン駅にイルザは現れなかった。そしてカサブランカが二人の運命の再会の地となる。
永井荷風は『断腸亭日乗』昭和十五年六月十四日の欄外に「巴里落城」と朱書し、六月十九日には「都下諸新聞の記事戦敗の仏蘭西に同情するものなく、多くは嘲罵して憚るところなし。其文辞の野卑低劣読むに堪へず」と、七月十七日にはフランスのワインを見て「胸ふさがる心地しぬ」と書いた。愛する都市についての報道から国際政治を洞察した格好の事例である。

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アイスランドのミステリー作家アーナルデュル・インドリダソンの『湖の男』『緑衣の女』に続いて『湿地』(いずれも柳沢由美子訳、東京創元社)を読んだ。三作とも偶然発見された遺体について探って行くうちに、いまを生きる人々の人生が浮き彫りにされる構造をもつ物語で、そこに介在するレイプやDVの描写がなんともすさまじい。なかでも『湿地』は暗鬱極まりなく、ミステリーでなければ本を閉じていたかもしれない。
「この世は天国と地獄の交じりあったところだと思っている」(『湿地』)
信仰を持たず、来世を信じられない者はこの世に天国と地獄との交錯を見るほかない。両者には均衡も静止もなく事情に応じてどちらかに傾くのは避けられないけれど、この作家は地獄へ傾きすぎる嫌いがある。ただし謎を解明する過程がスピーディまた意外性に富み、読みはじめると止まらない。
シリーズの主人公エーレンデュル刑事はヒップホップを縄跳び(ホップ)に関係する言葉だとばかり思っていたという人で、新しい事象になじめないところにわたしは共感を覚えている。
むかし、空きっ腹でミニバーグという文字を見て、てっきりレストランと思ったのに美容院だったので妻に嗤われたことがあったのをヒップホップ〜縄跳びで思い出した。いまミニバーグはネットに「むかしむかしミニバーグと言うパーマがありました。くるくる、ではなくてぽこぽこ、のような自然な感じのパーマでした」なんてあるからすでに昭和の遺物となっているようだ。念のためクックパッドで検索するとミニバーグがあり、確たる料理用語となっていた。
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Amazonビデオで「ローマ」前後篇を見た。前篇はカエサルの死まで、後篇はオクタビアヌスが権力を掌握するまでを扱う。いささかエグいのとセックスシーンが過多なのが難だが、まちがいなく素晴らしい歴史劇で、時代考証は云々できないけれど、第一感で申せば、しっかりしたものではないかな。
米国の有料ケーブル局HBOと英国BBCが共同制作したテレビドラマは、総製作費二百億円余り、製作期間は企画から撮影終了までおよそ八年にわたる。住居、服装、キリスト教以前の精神風俗など歴史絵巻とよぶにふさわしい作品を視聴するうちにHBOとBBCの底力を感じた。
Amazonのカスタマーレビューを見ていると、案の定、ローマ史のリアルと現代のモラルの相違はあるにしても、過剰なエロとグロが価値を貶めているといった批評が散見された。そのうえでBBCという公共放送がここまでの描写をしたのは頼もしく、たいしたものだと思った。ガイドラインはどうなっているのだろう。
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アーナルデュル・インドリダソン『声』を怒濤の一気読み。エーレンデュル刑事を主人公とする警察小説のシリーズで、『湖の男』『湿地』『緑衣の女』の前三作がアイスランドでの殺人事件を機に、被害者の過去とそこにつながる人々の人生が浮き彫りになる構成で、白骨化した死体の謎が解き明かされてゆくのにたいして本作は殺人ではなく、生ける屍のような存在にされた男の謎があきらかにされる点で趣が異なる。
その男の部屋にはシャーリー・テンプル主演の映画「リトル・プリンセス」のポスターが貼ってあり、これが彼の人生のアクセントとなっていて、映画ファン、トリビア好みには興味深い。
「リトル・プリンセス」は一九三九年の作品で、日米開戦以前ながら両国の関係が悪化した状態にあったため、日本での公開は多くのシャーリー・テンプル作品とおなじく見送られた。記録によると一九七九年になってようやく「テムプルちゃんの小公女」としてミュージカルシーンを大幅にカットしたうえ吹き替え版で公開された。できれば吹き替えじゃない完全版を見てみたいものだ。
シャーリー・テンプル(1928-2014)は一九六七年以降、外交関係の公職に就き、アメリカの国連大使を補佐する国連代表団員やガーナやチェコスロバキア特命全権大使などを務めた。
一九六八年の「プラハの春」のときは国際会議で同地にいてソ連の弾圧を目撃している。また一九八九年から一九九二年まで特命全権大使としてチェコスロバキアに赴任し、ビロード革命に際しては民主化を支持して流血の事態の防止に努め、ソ連の軛を脱して以後の復興に尽力した。
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飯田橋に用があり、そのあと久しぶりに神楽坂界隈を散歩した。この日(七月二日)東京の最高気温は33.5度で、とても暑い一日だったが夕方には坂の並木の木陰が暑さを和らげてくれていた。
表通りをぶらついたあと路地へ入り、本多横丁に近い和可菜へ。

映画ファンにはおなじみの『神楽坂ホン書き旅館』(黒川鍾信)で、ネット上には「今井正内田吐夢田坂具隆山田洋次石堂淑朗をはじめ、日本を代表する映画監督、作家、脚本家たちが和可菜に滞在し、作品を書いていました。50年以上も続く老舗旅館です」との紹介があった。ちなみに「男はつらいよ」シリーズの後期の脚本の多くはここで書かれた。
昭和に活躍した映画スター木暮実千代さんがオーナーで、妹の敏子さんが女将だった旅館の表札には「木暮、和田」とある。
もちろん散歩のあとのビールは欠かせない。

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井上章一『パンツが見える。 羞恥心の現代史』が新潮文庫に入ったのを機に再読した。せっかくだからすでに文庫化されている井上氏の『愛の空間 男と女はどこで結ばれてきたのか』(角川ソフィア文庫)にも再会した。ともに、あっ!という問題意識を貫いて、資料博捜、論理明快、まさしく日本人の性愛風俗をめぐる名著である。
たとえば待合。ご承知のように花街を別名、三業地と呼ぶが、その三業は料理屋・待合・芸者屋(置屋)を指す。なかでいまのわたしたちにわかりにくいのが待合で、ラブホテルの前身のようではあるが、そう言い切ってようかどうか?
そこのところを『愛の空間』を読みながら探求してみよう。
まず待合は「客が芸者などを呼んで遊興する所」(新明解国語辞典)だった。遊興だから寝るだけの場所ではないが、芸者と待ち合わせて寝る場合はラブホテルとなった。従業員(女中)は遊興の段取りが仕事で、芸者をときふせて客との同衾を承知させるのが腕の見せ所だった。
待合が繁盛すると割を食うのが遊郭で「以前と違って、此節は芸者が安く転ぶから、堪ったもんじゃありゃしないやね」と女郎屋の女将は嘆く。その嘆きから、客の視線が寝る専一の遊廓の女性から芸者や女給へと移っているのが察せられる。
そうなると三業地にも変化が起きる。「末流の花柳界では、料理屋で遊ぼうというものよりも、直ちに待合にしけこむという野郎の方が多いので、自然此の淫売宿の繁盛を来すのであります」というわけだ。(樋口紅陽『皮肉風刺芸者哲学』大正十年刊)
こうしていきなり勝負をかける場合は待合となるのだが、しかし待合スタートの芸者は格下、下流というのが花柳風俗であり、しかるべき芸者には料理屋から始めていく配慮を必要とし、またそれがマナーであった。そこのところは現代もおなじで、レストランからスタートするのを優雅としなければならない。
じつはいきなり待合より、もうひとつ格下があり「三四流のキリ級になると、うどんの相手に三味を弾くようなものが、地方には少くない。現に東京附近の大宮芸者は、うどん屋の二階へ呼ぶこともできる」(日本社会学院調査部『風俗問題』)というから、さもしくケチな男の性はしばしばうどん屋、そば屋の二階が舞台となっていた。
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所用で渋谷に行き、そのあと円山町とBunkamuraとのあいだに位置するスターバックス井上章一『愛の空間』を読んでいると、獅子文六『青春怪談』(昭和二十九年刊)の一節が引かれていて、そこに昭和二十年代後半の円山町の風景が「昔なら、御神灯が下がっていそうな家々―戦災ですっかり焼かれた代わりに、今度は、新風スキヤ造りの表構えで築地赤坂の同業者を、安手に模倣しているような待合が、ズラリと軒を並べた丸山の花街なのである」とあった。
いまはラブホテル一色のエリアだが、そのころはスキヤ造りの安手の待合ばかりだった。スキヤ造りは数寄屋、すなわち茶室を取り入れた建築様式で、茶室もどきが「愛の空間」だった。
三善英史の「丸山・花街・母の町」は昭和四十八年のヒット曲で、このころすでに円山町の主流は「新風スキヤ造り」の待合からラブホテルに代わっていて、「円山 花町 母さんの涙がしみた 日陰町」という歌詞には待合の軒灯を懐かしむ雰囲気がある。