北のカサブランカ(其ノ一)

三月一日から八日にかけてリトアニアラトビアエストニアの順にバルト三国を廻った。いやー、寒かった。昨年一月にポーランドを旅していて、三月のバルト三国はおなじくらいのものだろうと予想していたけれど、エストニアはともかくリトアニアラトビアは段違いの寒さだった。初日リトアニアの朝の気温が−15度、これまで覚えたことのない冷気のなかの旅だった。
昨年のポーランドではオスカー・シンドラーゆかりのクラクフを訪れた。そうなると「日本のシンドラー杉原千畝の足跡にも触れてみたい。バルト三国へ行ってみたい第一の要因がこれだった。
杉原がリトアニアカウナスに領事館を開設し、領事代理を命じられたのは一九三九年(昭和十四年)七月二十日、翌一九四0年六月十四日ドイツ軍がパリに入城し、およそひと月後の七月中旬には在カウナス領事館に避難民が押し寄せるようになり、この月の下旬から杉原は避難民救済のために多数のヴィザの発給をはじめた。日本政府の意に反した失職覚悟の行為だった。
八月二十九日杉原は総領事代理としてプラハ在勤を命じられ、まずはベルリンにむかった。かれはその列車がカウナスを出発するまで渡航許可証への署名を続けていたという。(領事館の閉鎖とともにヴィザの発給はできなくなっていたが渡航許可証は可能だった)
ドイツ軍がパリに入城したおなじ日に、ソ連リトアニア最後通牒を発し、同国はやむなく受諾したためここはソ連の支配地域となった。リトアニアにはポーランドから多くのユダヤ系難民が逃れて来ていたが、占領したソ連は在リトアニア大使館、領事館の閉鎖を求めたためかれらは路頭に迷うこととなった。ところが在外公館の閉鎖が相次ぐなか日本領事館だけがかろうじて業務を続けており、難民たちはここにヴィザを求めて殺到した。ヴィザは通過ヴィザで、シベリア鉄道に乗って極東に向かい、そこからまた北米、中南米などに行くコースしかかれらの生きのびる道はなかった。
写真は杉原記念館(旧領事館)の入口と執務室。机上には万年筆やヴィザの発給リストなどが置かれている。畏れ多かったけれど杉原がたくさんのヴィザに署名した机の前に坐らせていただいた。
 
のちに杉原は「忘れもしない一九四0年七月十八日の早朝の事であった」「六時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと百人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」と書いていて、館内には領事館前の難民たちを撮った写真が展示されていた。

この写真も含め杉原がカウナスにいた当時の写真の多くには「CASABLANCA OF NORTH」の見出しのあとに説明がしるされていた。現地ガイド氏に「北のカサブランカ」の由来をたしかめたところ、映画「カサブランカ」をふまえたもので、フランス領モロッコカウナスとの類似を示したものですとの答えだった。
映画のなかのカサブランカはヨーロッパから難を逃れた人々がアメリカ合衆国へむかう経由地であり、ここで幸運にもヴィザが入手できた人たちは直截もしくは中立国だったポルトガルリスボンに渡り、そこから米国に旅立った。リックとエルザとのラブロマンスにヴィザの争奪戦をからめた映画はカウナスにも通じていたのである。
また白石仁章『杉原千畝 情報に賭けた外交官』(新潮文庫)にはカウナスにあるヴィタウヌス・マグヌス大学のアレクサンドラビチュス教授が「少し、ロマンティックな表現だが、当時のカウナスはヨーロッパのカサブランカのような街だった」と語ったとあり、それをうけて白石氏は「映画では、カサブランカの街には様々な国の人々がそれぞれの思惑をもって行き交う人間模様が鮮やかに描かれていた。カウナスはまさに、多様な国の人々が行き交う諜報の最前線だった」と書いている。カウナスという逃れの街は熾烈な諜報戦の街でもあった。
カサブランカ」はわたしを映画のとりこにした大切な作品のひとつ。だから杉原が直面した問題の深刻をわきまえながらも「北のカサブランカ」はなんともうれしい驚きをもたらしてくれた。