「カサブランカ」のシナリオから(二)〜《A lot of water under the bridge.》

リックはイルザといっしょにパリからの脱出を決めました。ところがイルザはリックの前から姿を消しました。失意のリックは歌手でピアニストのサム(ドーリー・ウィルソン)とフランス領モロッコカサブランカに逃れ、ここで酒場を開きました。そこへイルザが夫ラズロとともにやって来ます。ナチスドイツがフランスを占領したのは一九四0年五月でしたからパリでの離別からおよそ一年半後の出会いです。大変な偶然!「哀愁」や「愛染かつら」などでもおわかりのように通信手段が限られていた時代のメロドラマはこうした偶然の出会いやすれ違いが劇を盛り上げます。

カフェ・アメリカンでラズロとイルザが 席に着き、ラズロがボーイ長に注文します《Two Cointreau,please》。今回脚本を読んではじめてコアントローというお酒を知りました。オレンジ風味のするリキュールだそうです。

映画を通じて人気の出たお酒に「凱旋門」のカルヴァドスがありました。日本での公開は一九五二年(昭和二十七年)でイングリッド・バーグマンシャルル・ボワイエの二人がノルマンディ産のこの林檎酒を飲むシーンが評判を呼びました。大多数の日本人が飲んだのはもちろん見たことも聞いたこともなかったお酒を二人のスターが紹介してくれたのですからしあわせなお酒です。ネットにはレマルクの原作あるいは映画をつうじてこのお酒を知った方々のカルヴァドス体験記が寄せられています。

昭和二十年代、種村季弘は映画に惹かれてやっとのこと新宿にこのお酒を置いてある店があると知り、行って飲んだところ、これがとんでもない偽物であとでひどい目に遭ったそうです。偽物が出廻るほど流行していました。

一九五六年、開高健サントリー、当時の寿屋のPR誌「洋酒天国」に「レマルクの『凱旋門』以来、カルヴァドスが名を売りましたが(中略)正体はリンゴからとったブランデー、上物にはさわやかさとコクがあり、好事家は喜びます。日本にも、ときたまきているようです」と書いています。

カサブランカ」のコアントローが評判になった話は聞きませんが、カルヴァドスコアントローともにわたしは未経験のお酒で、近いうちに味わってみようと思っています。

カフェ・アメリカンに話を戻します。

ピアノを弾いていたサムが見知らぬ男といっしょに来たイルザを見て驚き、そして傷心のリックをおもんばかり不安の表情を浮かべます。

そうしたサムの気持を知ってか知らずかイルザは夫のラズロが抵抗運動の同志とカウンターで話をしているあいだに、ピアニストを呼んでもらえるかしら、と頼み、サムがやって来ます。

《Hello,Sam》

《Hello,Miss Ilsa. I never expected to see you again.》

「まさかここでお会いできるなんて」のまえ、サムはイルザへの呼びかけに《Hello,Miss Ilsa.》といっています。Mr. Mrs. Miss.は通常、姓につけるところをここでは名前を用いていて、これは奴隷制のなごりで奴隷たちは主人や家族を名前に敬称をつけて呼ぶことが習慣となっていた、とテキストの注釈にありました。

二人のやりとりは

「久しぶりね」《It’s been a long time.》

「ええ、いろいろなことがありました」《Yes.ma’am.A lot of water under the bridge.》と続きます。

《A lot of water under the bridge.》は《A lot of water has flowed under the bridge.》の省略形。字幕では、橋の下をたくさんの水が流れたなんて直訳は無理ですが、サムのせりふはアポリネエル「ミラボオ橋」を思い出させてくれます。

ミラボオ橋の下をセエヌ川が流れ

われ等の恋が流れる

わたしは思ひだす

悩みのあとには楽しみが来ると

日が暮れて鐘が鳴る

月日は流れわたしは残る(堀口大學訳)

写真はよき日のパリでのリックとエルザ。サムが"As time goes by"を弾き語りしています。

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