谷根千つれづれ草

十月三十日。朝、ジョギング。在職時は勤務日に走れる環境にはなかった。それがいまは週に五日は走る。一週、土日の二十キロから五十キロに伸びた勘定で、退職してからの大きな変化だ。練習成果を引っさげて東京マラソンに応募したが、あえなく抽選落ち。ホノルルマラソンに行く話もあったけれど割高感があって止した。二月に某市の駅伝大会に出て以来レースには出ていない。シーズン到来、はやく観光を兼ねた魅力あるレースを探さなくては。
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朝食後「「芝浜」余話」と題した記事を仕上げてブログにアップ。ここ二回「芝浜」と三代目桂三木助に寄せての記事を書いたものだから、よい機会と思い立って、何年かぶりに三代目の墓参に観音寺を訪うた。

谷中五丁目、寺町の一角、自宅から徒歩で十五分ほどのところにある。新義真言宗のお寺で慶長年間に創建されている。
ちなみにここは赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第六世朝山大和尚の兄弟であったことから、討入りの会合にもよく使われた赤穂浪士ゆかりの寺で、討入りのあと赤穂浪士供養塔が建立された。

三代目桂三木助は本寺塋域の中央付近に「先祖代々墓」、台石に「小林」、花立に「姿見楼」とある墓に葬られている。「姿見楼」は三代目の生家で、湯島天神下にあった床屋。四十三歳で自殺した息子の四代目三木助もここに眠る。

三代目の本名は小林七郎、四代目は五代目柳家小さんと同姓同名の小林盛夫。三代目は愛息に、おなじ小林姓で親友の小さんの名前をつけている。手を合わせたあと、写真を撮らせていただいた。
(外壁に平瓦を張り、継ぎ目は漆喰を盛った海鼠壁。観音寺のすぐ近くにある。)  
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三時から三省堂川本三郎氏の講演とサイン会が開かれるため、昼食後ぶらぶらと歩いて神田古本祭りが開催されている神保町へ向かう。
先日神保町シアター千葉泰樹監督特集「丘は花ざかり」(池部良、木暮三千代、杉葉子)を観たときロビーにきょうの催しのポスターが貼られてあったので、さっそく申し込んだところ、さいわい定員百名にまにあった。
買ったまま読んでいない本がずいぶんある。置き場に困っており、これには防災問題が絡む。家族の白い眼がある。いわれなくても本を買うのは慎重にならざるをえないのだが、川本さんの荷風関連書や映画の本となるとまた別の話で、先日も中公新書の新刊『銀幕の銀座』を読み終えたばかり。だからせめて古本まつりは店頭をのぞくだけにしようと意を決しながら本郷通りを行く。
購書といえば、これまで最大の顰蹙は三十数巻に及ぶ『斎藤茂吉全集』を求めたときで、古本の金額はたいしたことないが置き場に難渋した。高校生のとき受験勉強に岩波新書の『万葉秀歌』を読み、爾来無縁の人の全集というのは学力面からしても無理がある。でもさあ・・・・・・

「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか、大切にして、無理してはいけないとおもひます。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。○写真も昨夕とつて来ました。とりどりに美しくてただうれしくてそはそはしてゐます。」

といった手紙を読めば、書簡を収める本を手にとってみたいのは人情ではございませんか。茂吉の書簡集や全集の端本も折々に探したけれど見つからず、『斎藤茂吉選集』はあっても書簡は収められていない。となるとあとは全集にあたるほかない。
上は昭和十一年十一月、当時五十代なかばの茂吉が、「アララギ」に属して茂吉から短歌の指導を受けていた二十八歳下の弟子、永井ふさ子(本名フサ)に宛てた手紙。
その頃、茂吉はスキャンダルの渦中にあった。ダンスホールの男教師がジゴロとして風俗壊乱、不行跡の廉で検挙され、それに関連して茂吉の妻てる子や吉井勇夫人徳子が事情聴取を受けた。ダンス教師と有閑マダムのいわゆる「恋のステップ」事件で、吉井勇夫妻は離婚、茂吉のほうは離婚こそしなかったものの夫婦関係には亀裂が入った。茂吉夫人はもともと男性遍歴多いモダンガール、そこへ現れたのがふさ子だった。
二人の関係は昭和二十年茂吉の山形疎開を機に終焉を迎えたようだが、茂吉没後十年の昭和三十八年にふさ子の側からこの手紙をふくむ二人の書簡が公開され全集に収められた。

「拝啓 あゝおどろいた。あゝびつくりした。むねどきどきしたよ。どうしやうかとおもつたよ。・・・・・・無理なことをしてはいかんよ。お互ひにもうじき六十八歳ではないか。レンアイも切実な問題だが、やるならおもひきつてやりなさい。一体大兄はまだ交合がうまく出来るのか。出来るなら出来なくなるまでやりなさい。とにかく無理なことをしてはいかんぞ。」

これは昭和二十四年、川田順が京大理学部教授、中川与之助夫人で歌人鈴鹿俊子との恋に苦しみ、自殺未遂を起こした「老いらくの恋」事件のとき、新聞報道に接した茂吉が川田に宛てた手紙。川田は昭和十一年に住友総本社の筆頭重役で引退するまで実業界にあり、佐々木信綱門下の歌人としても活躍し、戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめている。
この手紙も直截にして訥々とした言葉で心情を叙した名文で「レンアイも切実な問題だが、やるならおもひきつてやりなさい。一体大兄はまだ交合がうまく出来るのか」といったところで茂吉はふさ子に溺れた自身の姿を見つめていたような気がする。
高島俊男氏が『座右の名文』で「茂吉のなにがすきなのか、といえば、その人物がすきなのである」と評している。その人物が手紙にはよく出ている。
いかん、いかん。話題がそれていっている。ともかく茂吉全集の教訓を胸に、心して三省堂前から古本まつりに出発したのでありますが、少し行くと中公文庫すべて一冊百円の張り紙に眼が止まり、ここではや誘惑に屈して子母沢寛『小説のタネ』、日影丈吉『名探偵WHO'S WHO』の二冊を得る。座頭市のことを書いた『ふところ手帖』は手許にあるが『小説のタネ』はこれまで見逃していた。日影丈吉の本はなかなかめぐり会わないので即決。和田誠の装丁がうれしい。

ところでわたし、死ぬまでに二十世紀文学の高峰ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』とマルセル・プルースト失われた時を求めて』は読んでおきたいと願っている。とはいえ『ユリシーズ』はこれまで二回チャレンジして早々に挫折。プルーストはまだチャレンジもしていない。夢の取り置きである。だから路上の出店の棚に柳瀬尚紀ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(岩波新書)があったりすると夢の実現には必要かもしれないとの雑念が湧く。百円で夢の実現に資するのなら誰が買わずにいられよう。そしてもう一冊アレー『悪戯の愉しみ』(福武文庫)。アレーの小品・コントは何かのアンソロジーで数編読んだおぼえがある。アンドレ・ブルトンが「エスプリのテロリズム」と呼んだ作家の山田稔訳が百円とくれば抵抗はできない。ここまでで四冊。

といったところでやっと田村書店へたどり着いた。ふだんはまずこの店の百円均一の「エサ箱」をチェックして神保町めぐりをはじめるのだからここは避けて通れない。人だかりのなかなんとか前列に出て文庫本をチェック。
ここはよい「エサ」を獲る確立の高い店だけど、おまつりの日だからかいつも以上に気合いの入った本が置かれてあるみたい。誘惑に負けてはならじと念のため財布を見ると、なんと小銭は数十円で、一万円札が一枚。古本屋で百円、二百円の本を一万円出して買うのはおよそエチケットに反する。まことにまずい事態で、そのとき瞬時に、ならばせめて十冊千円でまとめて買おうと愚考した。そこで他のお客さんに迷惑がかからないようすばやく選択したのが以下の十冊。
森銑三『明治人物夜話』(講談社文庫)
河竹登志夫『作者の家』第一部、第二部(いずれも講談社文庫。既読だが講談社文庫版というのがめずらしい。)
西郷信綱梁塵秘抄』(ちくま文庫
森類『鴎外の子供たち』(ちくま文庫
塚本邦雄『茂吉秀歌』(講談社学芸文庫)
塚本邦雄『定家百首』(河出文庫
種村季弘『吸血鬼幻想』(河出文庫
本間國雄『東京の印象』(現代教養文庫
青山光二『われらが風狂の師』(新潮文庫
どうです、なかなかシブいチョイスに見えませんか。自分で自分をほめてちゃ世話ないね。
神田古本まつりは十一月三日まで。そのあいだは神保町に近づいてはならないと思いつつ、三省堂へと引っ返す。
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三時。川本三郎氏の講演スタート。
川本さんの著作を追っかけるようになったのは『荷風と東京』(一九九六年都市出版)がきっかけで、この本と荷風日記を眺めながら荷風ゆかりの地をずいぶんと歩いた。わたしにとって氏は荷風と映画と町歩き、散歩のお師匠さんである。該博な知識のもと、マクロな視点、俯瞰の眼をしっかり持ちながら、人が気づきにくい細部をクローズアップする手法が見事で、その成果が明晰で親しみやすい文章で示される。
きょうは『小説を、映画を、鉄道が走る』(集英社)の刊行に寄せての催し。川本さん自身は「鉄ちゃん」と呼ばれる鉄道マニアではなく、鉄道の旅が大好きな「乗り鉄」だという。その立場で小説や映画に描かれた鉄道を採り上げている。
新著には記述のない、講演で触れられたエピソードをひとつ。松本清張原作、野村芳太郎監督「張込み」で大木実宮口精二の刑事が鹿児島本線に乗り佐賀に向かうのだが、「鉄ちゃん」の眼で見ると、佐賀市に行くには鳥栖で乗り換えなければならないのにそのシーンがなく、手抜きの印象があるのが不満なのだそうだ。
一時間のお話のあとサイン会。

サインをいただいたあと川本さんにいっしょに写真をとお願いしたところ気軽に応じてくれた。撮ってくれた三省堂の方、ありがとうございます。これからの読書の励みになります。
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ルンルン気分になったので帰りも徒歩とした。とちゅう本郷三丁目交差点近くのスターバックスで腰を降ろし、iPodでジャズを聴きながら買った本のあちらこちらを広げては眺めた。
茶店で過ごす時間が長くなったのもジョギングとおなじく退職後の大きな変化である。むかし吉田健一が、フランスのカフェは、名目は珈琲を売る店であるが、それよりもここは何もしないでぶらぶらしているための場所、何もすることがない人間が行く場所だと喝破し、日本にもこういう場所がなくてはいけないと論じた。昭和三十年代、日本の喫茶店はまだその域に達していなかった。
それがいまはどうだ。老生は一日一度は喫茶店へ行き、本を読み、音楽を聴いてゆるやかな時間を過ごす。問題山積、不安いっぱいの日本の社会だけれど、喫茶店にかんしてはよい時代を迎えたものだ。
無聊のなかの充実、そんな感じの一日を、住まいのある地域の愛称を冠して、谷根千(谷中、根津、千駄木)つれづれ草の日と呼んでいる。きょうはまさにその一日。だからかなあ、そっとつぶやくつもりがつい長くなってしまった。