『不眠の森を駆け抜けて』余話

漱石夫人夏目鏡子に『漱石の思ひ出』という著書がある。鏡子が口述し、漱石の弟子で長女筆子の夫松岡譲が筆録した。
この回想記が雑誌「改造」昭和二年(一九二七年)十月号に掲載されたとき、永井荷風は『断腸亭日乗』同年九月二十二日の記事で「不快の念に堪へざるものあり」として、未亡人が世間の知らない夫の秘密をべらべらしゃべったりして何という心得違い、たとえ秘密でなく世間に知られている内容であっても夫の名に係わることは妻として命に代えても包み隠すのが本分、女婿松岡某までがいっしょになって本を書くなどまことに言語道断である、といたく憤慨している。そして「何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり」とおなじみの荷風節がつづく。
荷風に私淑すること久しいわたしだが、ここのところは納得できませんね。妻であれ愛人であれ心のうちに切実に語りたいことがあれば言わなくてはいけない。行動に移したいことがあれば動かなければならない。心ならずもため込んだり躊躇していては腹ふくるる心地がして心にも身体にもよくない。心のうちを語るのは生きた証を立てることにほかならないのだ。
日本の文学史で妻が亡夫を語ったのは『漱石の思ひ出』を以て嚆矢とするのかどうかは知らないけれど、妻や愛人が相手の作家を語った本はけっこう多く、近代日本文学の伝統といってもよいような盛況ぶりだ。思いつくだけでも谷崎松子は潤一郎を、おなじく息子の嫁の渡辺千萬子は谷崎との往復書簡附きで、坂口三千代安吾を、武田百合子は泰淳を、高橋たか子は和巳を、色川孝子は武大を、吉行淳之介は正妻の文枝と愛人の宮城まり子、大塚英子が語るにぎやかさで、さいきんでは山口果林が『安部公房とわたし』を上梓した。
永井荷風がこの殷賑ぶりを見たら何というかな。
男女関係の告白では、夫や不倫関係にあった男が妻や愛人についてあらわな告白をするのは女のばあいに比較してすくないようだ。単純には男が著名人で女が長生きというパターンが多いのが理由だが、そればかりでなく男からする男女関係の告白は女がするのに較べてむつかしく、読者の側も食指が動きにくいという事情がある。女の告白は読んでみるかという気になっても、男だと、どうせ自慢話だろう、他人のいい思いをした経験談などにつきあっていられないと遠ざける。だからわたしもその種の体験をむやみに語ったりしない。(「おまえは語るに足る材料がないだけしゃないか」「ハイッ、すみません」)

こうして男が赤裸々な話を、それも嫌味なく、ほほえましくするのはとてもむつかしいのだが白坂依志夫の才筆は例外で『シナリオ別冊 脚本家白坂依志夫の世界「書いた!跳んだ!遊んだ!」』と『不眠の森を駆け抜けて』を読むとよくわかる。
実例として後者にある「眷恋の女性(ひと)ー若尾文子」を挙げておきましょう。
主役に若尾文子白坂依志夫、脇役に三島由紀夫寺山修司井上ひさし、佐伯幸三(白坂によると「とんでもないブ男」にして「一日に二人はコナさないと鼻血が出る」という映画監督)、若尾の運転手兼付き人で男装の怪人Dを配した体験談、実見談、ゴシップは渾然一体となってまるで上出来のスラップスティック映画のよう。
十代の後半のとき先輩のライター成澤昌茂に「女優は誰が好きなの」と聞かれて「若尾文子」と答えたところ、成澤はうっすらと笑い「佐伯幸三にロケ先でコマされたって話だよ」。
白坂はこれはきっと成澤が自分をからかっているんだと胸におさめた。数年経って白坂は大映から脚本家としてデビューし「あさ潮ゆう潮」という原作の脚本に臨む。主演は若尾文子、そして監督はこともあろうに佐伯幸三だった。
のちの一夜、白坂と若尾文子のデートのシーン。
〈二人で「ジョージス」というステーキ専門のレストランで食事をしている最中、若尾が聞いた。
「結婚はうまくいってるの?」
「いや、それが」と私。
「早すぎたのよ。結婚なんてゆっくりでいいのよ」
二十六、七歳だったろうか。こんな妖艶な若尾は、見たことがなかった。
レストランを出て、若尾の車に乗り込む。ジャガー特有のエンジンが響く。
「どうする?」と若尾が聞く。「どっか、行く?」
「行こう」興奮で、息が詰まった。
「横浜なんか、どう」
「いいね」と、私は早くも亭主気取りであった」〉
こうして若尾のジャガー第三京浜に向かったのだが、そこから先は本書でどうぞ。
白坂依志夫は自分のことを含めて男女の仲を語るのにまことに長けている。暴露趣味、露悪家と評する向きもあるだろうが、これは著者の精密正確な記述の賜物であって、だいいち暴露から優れた作品が生まれるはずもない。
そこに「たしかに渥美マリさんのパートなど、すごく生々しいのに陰湿ではなく、ハードボイルドになっていますね。映画のヒロインのようです」「だから書かれた人の身になってみないと分かりませんけれども、書かれてもイヤじゃないような」「ちょっと書かれてみたいですよね(笑)」「(爆笑)そうそう」といった発言も出て来る由縁がある。(井上志津、北川れい子、高山由起子、松本真樹の才媛による座談会「白坂依志夫に燃えちゃうワ〜女性から見た白坂依志夫像」前掲『シナリオ別冊』所収)
といったところで余話はおしまいだが、まえに「国体にまで出た鍛えた身体と演歌歌手のバタヤン(田端義夫)に散々弄ばれて覚えこんだ性技で、左さんは私を何度も頂点に・・・・・・」という箇所を引いたが、田端義夫左幸子はどこらあたりに接点があったのか気になったので、そこのところについてすこし補足をしておきます。
一九五五年(昭和三十年)四月七日、田端義夫の結婚披露宴が上野精養軒で行われた。媒酌人は喜劇映画もっぱらの斎藤寅次郎監督、再婚の田端に寅さんは「この結婚NG出さぬよう」などと挨拶、古川ロッパの「新郎新婦万歳」三唱でおひらきとなった。『古川ロッパ昭和日記』より。
斎藤寅次郎が新東宝で撮った喜劇映画に古川ロッパはしばしば出演していて田端義夫も伴淳の「アジャパー天国」などいくつかの作品に出演しており、婚礼での万歳三唱はこうした経緯からだったと思われる。
ロッパの日記には左幸子も登場する。ロッパ出演の昭和二十八年新東宝作品「アチャコ青春手帖」で左幸子はニューフェースとしてロッパの次女役を演じている。左幸子は一匹狼の女優というイメージが強いが、デビューは新東宝で、思うに新東宝、ロッパの周辺あたりが二人の接点だったかもしれない。