雨の日の午後に

雨の日曜日の午後、NHKのテレビ囲碁選手権のあと、シャーロック・ホームズのテレビ・ムービーを取り出して「踊る人形」を見た。BBC製作、ジェレミー・ブレット主演のシリーズの一篇で、ときどきこうして視聴しては原作を読み返している。

原作では、踊る人形の暗号をどんなふうにして解読したかをホームズが丹念に講釈するが、映像にするとかったるくなるのだろう、ここはあっさりと済ませている。
このホームズ・シリーズはビクトリア朝風俗がよく実証され、画面に取り入れられているとの評価がある。それを意識して見ているとホームズがキュービット家の下働きの男に手紙を渡す際に折り返しを唇で湿して封をする場面があったりするのがおもしろい。原作には折り返しを湿らせて封をしたとの記述はなかった。小説はそこまで書き込まなくてもよいが映像はそうはゆかない。
(たまたま数日後に読んだ「唇のねじれた男」に「ほう、きょうグレイヴズエンドで、親指の汚れた男が投函したとみえる。封をした者は、噛み煙草をやりながら、封筒の折り返しをなめたらしい」というホームズの言葉があった。)
かつての日本でもこれがあたりまえだったのが、戦時中に経費節約だと、わざわざ別に糊をかまえなくてはならない封筒が売られるようになったという。戦後は戦前のよき風俗に及ばないと吉田健一が嘆いていた。
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この三十年のあいだ、日本製テレビドラマではわずかに市毛良枝が紀子になった「東京物語」を例外に一切見ていない。いやというのではないけれど限られた時間とカネは映画や本に投入したい、となれば何かを断念しなくてはならず、なんとなくそんなふうになった。
海外ミステリー愛好者としてはシャーロック・ホームズエルキュール・ポアロミス・マープルコロンボ刑事等々とは出来るだけ親しいおつきあいを願ってきたが、時間的な制約は大きく、退職してようやくDVDのBOXセットに手が出せるようになった。デビッド・スーシェのポアロ・シリーズ「オリエント急行の殺人」なんかドラマ的にも、映像的にもたいしたものでしたねえ。それから好きなのはアメリNBCが1990年から2010年にかけて放映した「ロー&オーダー」。手許には第一シーズン放映分しかないけれど、ゆくゆく揃えたいと考えている。
視聴するIMAGICA BSではさきごろマーティン・スコセッシ製作総指揮による「ボードウオーク・エンパイア 欲望の街」がはじまった。一九二0年代の禁酒法時代、歓楽街を牛耳った実在の政治家イーノック・ジョンソンをモデルにしたものだが、第一シーズンの十二話に来年は第二シーズンが放映されるという。これらにくわえ名探偵モンクや新シャーロック・ホームズまで完璧を期すとなると映画や読書に影響しかねないので自制もしている。しかし時間にゆとりができて確実に海外のミステリー・ドラマに手を伸ばす機会は増えた。どんどん行っちゃえと思ういっぽうで老いらくの狂いは始末が悪いとの教訓もあるからと躊躇もしている。
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旧制三高に中村直勝という日本史の先生がいて(京大助教授を兼任)、この人の講義はおもしろかったらしく、教え子で弁護士の永田圭一という方が、中村先生の全集の月報で「高座の噺より面白かった。失礼やけど、先生職業の選択を誤られたのと違うやろか」と書いている。
中央大学で哲学を教えていた斉藤信治という先生の講義も特筆に価するもので、洗練された話芸で以て知的におもしろい授業をしていたという。他学部や他大学の学生はもとより、近所の床屋や洗濯屋の親父たちも講義を聴きにきて教室のうしろのほうでうっとりして聴いていたというからすごい。
どちらのエピソードも丸谷才一先生のエッセイで読んだ。
優れた話術で知的におもしろい内容の話をするというのは理想の授業であろう。だけどそれはあくまで理想であって、だいいちおれは話芸のプロではないなどと自分をガードしてきたが、中村先生や斉藤先生を見ていると、それがたんなる開き直りに過ぎないことがよくわかる。悔いても詮ないことではあるけれど。
斎藤先生は古今亭志ん生師匠の「ま」の取り方に学んでいたという。
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シネマヴェーラ渋谷エルンスト・ルビッチ「生活の設計」を観た。

その冒頭のシーンは、列車の個室で画家のジョージ(ゲイリー・クーパー)と劇作家トム(フレデリック・マーチ)が居眠りをしている、そこへ向かいの席に乗り合わせたジルダ(ミリアム・ホプキンス)が二人のスケッチを始めるというもの。男と女と乗り物の三者で映画は出来るというところへここでは早々に列車の個室に一人の女と男二人が登場する。下手な三角関係なんかにならないのはルビッチ・ブランドが保証してくれていて、はやくもその行方にわくわくする。なんだかんだとさほど必要のないことを持ち出してなかなか本題に入らない作品は多いが、ルビッチは前置き不要、冒頭に本質を提示する。
映画のあと喫茶店レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』の村上春樹新訳を読みはじめたところ、こちらも開巻一行目からチャンドラーの世界だ。
訳者はあとがきに「我々は誰しも自由に憧れる。しかし自由であるためには、人は心身共にタフでなくてはならない。孤独に耐え、ことあるごとに厳しい判断をくだし、多くのトラブルを一人で背負い込まなくてはならない」と書いている。
タフが自由と独立自尊を担保する。
村上春樹はこれにつづけて「そして言うまでもないことだが、我々の全員がそこまでタフになれるわけではない。我々の多くはどこかの時点で保護を必要とし、頼ることのできる組織を必要とする」と書いて現実に戻る。
しかるべき組織のなかで生活の糧を得る者に妥協や追蹤は避けられない。そこから眺めるフィリップ・マーロウは自由人としての夢を体現している。村上春樹はこんなふうにこの私立探偵の魅力を解き明かす。
中学生のとき、たしか法事のあとの酒席で、父の従兄のお百姓がサラリーマンの父に、金はないが、お世辞を口にしたり、媚びへつらったりする必要はまったくなかった点では農業をしてほんとうによかったと話していたのを聞いた。自営農のタフがあったといまにしてよくわかる。
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本郷図書館の棚に平岡敏夫佐幕派文学史』を目にして借りて来たところへ、録画してあった加藤泰監督「狼よ落日を斬れ」を思い出し、さっそく視聴におよんだ。佐幕派の雰囲気の濃い映画で、影響を受けやすい軽薄な当方の心中は平岡先生の著書とあいまって、維新の栄光ではなく徳川(とくせん)家の瓦解の愁色に染まった。

「狼よ落日を斬れ」の杉虎之助(高橋英樹)は幕末このかたの対立を越えて明治の世に新たな人生を生きようではないかと訴える。それに対し旗本直参の剣客伊庭八郎(近藤正臣)は、自由に生きたい、しかし後世から幕臣に人物はいなかったと評せられるようでは一国の精神は立たないと語り、彰義隊に駆けつけさらに函館へと向かう。伊庭八郎を見ていると、福沢諭吉が、明治政府に出仕した旧幕臣勝海舟榎本武揚を批判して「痩我慢の説」を書いた心情に思いがおよぶ。
平岡敏夫佐幕派文学史』は福沢諭吉から漱石までを扱うが、このあとには薩長の浪人どもが官員となったために風俗人情が卑しく下品になったとする永井荷風が控えている。