『カクテル・ウェイトレス』

一九七七年に八十五歳で亡くなったジェームズ・M・ケインの未刊の遺作『カクテル・ウェイトレス』(新潮文庫田口俊樹訳)が刊行された。原書はチャールズ・アルダイ(リチャード・エイリアス名義でハードボイルド小説『愛しき女は死せり』がある)による丁寧で細やかな編集作業を経て著者没後三十五年の二0一二年に出版されている。まさしくハードボイルド、犯罪小説の世界の「事件」である。
ケインの名作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と『殺人保険』はともに一人称で語られているがレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウロス・マクドナルドのリュー・アーチャーの一連の作品とは異なり、語られているのは明日のない、切羽詰まった男の悔悟と絶望の告白だからシリーズ化のない一人称だ。

『カクテル・ウェイトレス』も一人称で叙述されているが語り手は上の二作とちがってジョーン・メドフォードという二十一歳の女性、それに中味は悔悟と絶望の告白とは真逆の反省なんかしてはいられない自己主張だ。タフな女の告白は懺悔とはほど遠く、その意味では懺悔の値打ちもない。
物語はジョーンと幼い息子のタッドにたいし飲んだくれて暴力を繰り返したあげく交通事故死した夫の葬儀の場面からはじまる。ジョーンは幼い息子を養わなければならず、いささか怪しげなバーでカクテル・ウェイトレスの仕事にありつき、ここで彼女は初老の富豪に見初められる。同時に若くてハンサムだが貧しいトムにも出会い、心惹かれる。他方、警察は夫の事故死に疑いの目を向けている。
男としての魅力はまったく感じられない初老の富豪、貧乏だが魅力的な若い男、うら若い美形の女、そして警察の疑惑の目がからんで物語は緊迫感を帯びる。状況は『郵便配達』や『殺人保険』と似ている。また夫がいなくなり妻子が取り残されるところはケインの『ミルドレッド・ピアース』を思わせる。こうして『カクテル・ウェイトレス』が奏でるのはケインの諸作品の故事新編あるいは魅惑の変奏曲である。
だったら結末も似ているのではといった勘繰りは不要に願いたい。ご安心あれ、スティーブン・キングの言うように「読者は夢中になって本書を読み進めたあと、忘れえぬエンディングに出会い、心底驚く」こととなる。