明鏡止水

宋の李瀆素という人、酒を好み人が節酒を忠告すると、養生にはこれが一番、好きな物を飲んで余生を送るなんて楽しいではありませんかと答えた。

艾子が飲み過ぎて吐いた。門人たちは師の酒を諌めようと豚の腸を吐きものに混ぜて五臓の一つが欠け四臓になっているというと、先生は、なに三蔵(臓)法師でも大丈夫じゃないか!と応じた。

旅先に仕事は持ち込まない。観光はしない。目的をもつのは無理な努力を強いることだからである。というのが吉田健一流の〝旅の哲学〟だった。その延長線上に「本当の所は、人生は退屈の味を知つてから始る」「無意味に生きてゐること以外に生きてゐることに意味はない」という人生観があった。

李瀆素や艾子は退屈の味を知った人で、そこに酒という彩りを添えていたと、酒好きのわたしは想像した。

「人間といふものは時間を潰す為に強いて口を運動させて、可笑しくもない事を笑つたり、面白くもない事を嬉しがつたりする外に脳もない者だと思つた」と語ったのは漱石の猫くんで、ここはもう一段掘り下げて酒の意味を論じてほしかったが、漱石先生も猫くんも左党ではない。

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シャーロック・ホームズ最後の挨拶 』に収める「ウィステリア荘」に「いまきみたちがはいってきたとき、スコット・エクルズ氏は、まさにその一部始終を聞かせてくださろうとしていたところなんだよ。ワトスン、ブランデーのソーダ割りを一杯、さしあげるといいんじゃないかな」とあった。 ブランデーのソーダ割り! 小説のなかにこのような風俗を拾ったときは嬉しい。

ついでにこちらは小説ではないけれどブリア=サヴァラン『美味礼讃』にあったおつまみ。「フォンデュはもともとスイスの料理で、要するにチーズ入りのスクランブルドエッグ以外の何物でもないのだが、その配合の割合は時間と経験によっておのずと決まってきたものである」「人数分に必要な数のタマゴを用意し、合計の目方を量る。 上質なチーズ(グリュイエール)をタマゴの重量の三分の一、バターの塊をタマゴの重量の六分の一、用意する。 鍋にタマゴを割り入れ、おろしたチーズまたは薄く切ったチーズを加えて、よくかき混ぜる」。そのうちブランデーのソーダ割りとフォンデュを試してみよう。もっともわたしのフォンデュはいちいち目方を計ったりしない。自己流でけっこう。

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黒澤明監督『素晴らしき日曜日』(1947年)を見た。要所要所にある黒澤監督らしい演出や映像、戦後すぐの上野や新宿などの風景は貴重であるが、数十年前に見たときは雄三(沼崎勲)と昌子(中北千恵子)のカップルへの共感は少しはあったように思うが、今回は雄三の愚痴とぼやきにうんざりし、昌子には、早くこんな男とは別れてしまいなさいと言ってあげたいほどだった。。

敗戦直後の東京のある日曜日。貧しい恋人たちがデートをするなかいろいろな現実に直面し心が挫けそうになりながらもそれに立ち向かい力強く生きようとする姿は監督のメッセージであるとともに当時の日本人の心のありようが活写されている。もちろんその反対側には「こんな女に誰がした」の現実がある。それにしても雄三の愚痴とぼやきには辟易させられ、おれは苦しいときにあってもこんな態度はとらなかったと自認しているものの、それでも自分の背中は自分には見えない不安はある。

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私立探偵フィリップ・マーロウロスアンジェルス郡保安官事務所殺人課のバーニー・オールズ課長補佐(警部)がめずらしく語り合っていて、その周囲では渦を巻くように人々が階段を上り下りしている。ふとオールズがポケットから煙草を一本取り出し、しげしげと眺めてからコンクリートの階段に捨て、原形をとどめなくなるまで踵で踏みつぶした。マーロウが「もったいない」というとオールズは「ただの煙草だ、相棒。人生じゃない」と応えた。ハードボイルドの雰囲気のある短いやりとりだ。

‘Wasteful,’ I said. ‘Only a cigarette, pal. It’s not a life. 

レイモンド・チャンドラーの読者が本当に求めているのは殺人という作中の事件そのものよりもこうした会話と叙述を通じて感情が創造されることなのだ、と『長い別れ』(田口俊樹訳)の解説を担当した杉江松恋氏は論じている。

私立探偵と刑事は反目することが多いが、マーロウとオールズ警部は気が合っていて、少し長くなるがオールズ警部が語る世のなかの仕組みをマーロウ探偵とのやりとりを含めて引用しておきたい。

《てっぺんにいるやつらは自分らの手はきれいだと思ってるかもしれないが、やつらが今いるところにたどり着くにはどこかで誰かが踏みつけにされてきた。小さな商売をしていた連中は地盤を奪われて自分の店を二束三文で売らざるをえなくなり、真面目に働いてた人間は職を失う。株価は操作され、株主総会の代理委任状が金かダイアモンドかといった値段で売買される。多くの人間には必要でも、儲けが減るという理由から金持ちに不都合な法律ができそうになると、ロビイストか、でかい法律事務所が雇われて、成立を阻止し、十万ドルの報酬を得る。でかい金はでかい力になり、でかい力はとかく濫用される。それはもうシステムみたいなもんだ。よくてその程度のことだが、それでもそれは石鹼の広告みたいにピッカピカとはいかない」「アカみたいなことを言うんだな」と私はちくりと言ってやった。「知るかよ」と彼は私を蔑むように言った。「まだ思想調査を受けたことはないんで」》

そういえば七月にあったビッグモーターの兼重社長(当時)が記者会見で「耳を疑った。もう、こんなことまでやるのかと。愕然としました」「これから修理する人間が傷をつけて水増し請求する。ありえんですよ」と語っていた。これを信じるとしても「やつらが今いるところにたどり着くにはどこかで誰かが踏みつけにされてきた」「でかい金はでかい力になり、でかい力はとかく濫用される。それはもうシステムみたいなもんだ」という問題は残る。

わたしはマイナンバーカードを取得し、マイナ保険証の手続きも済ませているが、お役所が強調するこれらの利便性にも「でかい金」と「でかい力」がずいぶんと作用している疑いは消えない。なんて書くと「アカみたいなことを言うんだな」になるのかな。

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リンカーン弁護士」(Netflix)シーズン2をみていると、ミッキー・ハラー弁護士が娘に、わたしの父、きみのおじいちゃんはケニー・ドーハムが好きで、公判の前夜によく聴いていた、といってもきみはあのトランペッターを知らないだろうけど、と語っていた。低く評価され過ぎた人だったとも。

テレビドラマでこうしたシーンを見るのは、ジャズファンのよろこびだ。ケニー・ドーハム(1924-1972)でときどき聴くのは「蓮の花」で有名な「静かなるケニー」というアルバムでそのほかは知らなかった。ここへ来てようやくYouTube Musicのスクリーミングサービスでケニー・ドーハムを集中的に聴けた。

ネットには「ケニー・ドーハム(1924-1972)は、ビバップ時代からモダンまで活躍したトランぺッター。四十八歳で病没している。マイルスと同時代の人だが、その後の人気につながらなかったのは残念なところだ」(新宿ジャズ談義の会)という記述があった。実力と人気が比例しない人だった。

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昔は「御意見無用」と刺青を彫った人がいたそうだ。自分の人生について、はたからとやかく言ってもらいたくない、おれは自分なりに生きていくという独立宣言である。翻っていまはどうか。以前に較べて御節介やきは少なくなっているのか「御意見無用」の彫物は見たことがない。

京極純一先生の『文明の作法』に「御意見五両堪忍十両」ということわざが紹介されている。他人の諫言、忠告が五両の値打ちのあるものであれば、言われるわが身の忍耐は十両に値する。といっても「頼まれもしない忠告を買って出るおっちょこちょいが数知れず、また、カッカと頭にくる反発のため、忠告が、まず聞きいれられない」「従って、常識のある大人は、めったなことでは、他人に忠告しない。当人が大人である以上、所詮、当人の心まかせにするほかない」世のなかである。

目上の人の欠点や過失を指摘して忠告する諫言が、言うは易く行うは難いのはもちろんだが、この役目は自分に向いていると表明した人がいる。モンテーニュである。

「もし主人がたっての望みとあれば、主人の真実を率直に言い、行状をたしなめる、役目を引き受けたであろう」(『エセー』)そうして「私はそういう役目なら、十分な忠実さと判断と自由を持ち合わせたであろう。これは名もなき役目でなければならない。この職務は、自分の境涯に満足している人に、そして中位の身分に生れついた人にやってもらいたいと思う」と述べて、自身が諫言役に向いている所以を明かした。

自身の境涯に満足を覚える中位の身分なら、主人の痛いところを突いて、出世の道を失ってはならぬと恐れる必要がない、また中位の身分にあるために、あらゆる階層の人々と一層容易に交際できる、そこに諫言役の利点がある。人々の立身出世にも配慮したなんと至れり尽くせりの議論だろう。

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秋田県の佐竹知事が、十月二十三日に開かれた県の活性化に関する会議で、四国を訪れたことがあるが「酒はうまくないし食い物は粗末」「じゃこ天は貧乏くさい」などと発言した。

さっとく指摘を受けたのだろう「不穏当で不見識な発言だった。四国の方や県民らに不快な思いをさせ、心からおわびを申し上げたい」と謝罪した。

高知県生まれとしてはやはり気になるニュースで、それにじゃこ天は土佐の名物で当方の好物だ。食は好みだから知事が酒も料理も不味いと感じた事実は否定しようがないし、人それぞれである。そうだとしても、 公共の場で味の好みをむやみに口にして、おらが県を持ち上げ、他所を貶めるのは愚かしい。

その昔、どこかの議会で某議員が激昂したのか、この議場にいる半分の議員はバカだと言って謝罪に追い込まれ、この議場の半分の議員はバカではありません、と謝ったとか。ときに謝罪にも気を利かせたり創意工夫があればよい。酒と料理の話だから秋田の知事さんにはもっと美味しい謝罪をしてほしかったな。

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スポーツライター武田薫氏の署名記事にこんな話があった。。

八月に行われたメキシコシティーラソンで参加者の三分の一、一万一千人が「不正ゴール」とのニュースが流れた。この大会は大阪、名古屋と同じ世界陸連ゴールド大会だから何かの手違いだろうとは推測される、としたうえで、マラソン歴四十回を数える元メキシコ大統領候補のコメントを紹介していた。

「今のマラソンは、参加者全員が絶対ゴールしようと考えてスタートするわけじゃない。日頃の練習をしっかりした条件で確認する、雰囲気を味わう、参加賞が欲しい、いろいろいる」。そうして武田氏は「オリンピック代表」を連呼する日本のスポーツメディアは、こうした変化、多様化にはついていけないようだと問題提起をしている。

わたしは三月に走った東京マラソン大腿四頭筋の痛みにより30Kmの関門を越えられなかった。絶対ゴール主義者のはじめてのリタイアの衝撃で、もうレースは卒業しようかと考えたが、十月十五日の東京レガシーハーフの抽選に当たったものだから、気を取り直して出走し、さいわいフィニッシュできた。とはいえこれから先だんだんと完走は困難となるのは目に見えている。それでもいいじゃないか。「今のマラソンは、参加者全員が絶対ゴールしようと考えてスタートするわけじゃない」という大らかな考え方は心に止めておこう。絶対ゴールだとむやみに硬くならず、レースに参加するのもよいではないか。

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十月三十日、沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設先となっている名護市辺野古沖の地盤の改良工事をめぐり、不承認の沖縄県に対し国が県に代わって工事を承認する「代執行」に向け、国が福岡高等裁判所那覇支部に起こした裁判ではじめての弁論が行われた。これには沖縄県の玉城知事みずから出席し、訴えを斥けるよう求めた。

ニュースで、入廷をまえにした知事は記者から、いまのお気持はと問われ「明鏡止水の心境です」と答えていた。この語について『新明解国語辞典』は「[曇りの無い鏡と静かにたたえた水の意]心の平成を乱す何ものも無い、落ち着いた静かな心境。[不明朗のうわさが有る高官などが、世間に対して弁明する時などによく使われる」と説明している。そういえば誰か忘れたが自民党幹部のワルがこの四字熟語を弁明に用いていた。玉城知事はあまりこの熟語を使わないほうがよいな。

それはともかく、さすが新解さんの語釈は冴えている。『広辞苑』はもちろん、そのものずばりの辞典『明鏡』もありきたりの説明しかない。