『俳句世がたり』

ジョギングコースのひとつで谷中にある小沢信男氏のご自宅前を通る。
何度かアンソロジーでお目にかかっており、表札を眺めてそのうち単著も読んでみたいと願っていたのだがこれまで機会がなく、ようやく昨年末に岩波新書で刊行された『俳句世がたり』を通読し、もっと早くこの人の著作に接するべきだったとおもった。
同書は二0一0年から雑誌「みすず」に連載された短文を収める。いずれも古今の有名無名の方の句を採りあげ、時代を往還しながら昨今の世相を練達の筆さばきでしるす。
雑誌初出の題は「賛々語々」。由来は「月々の季節の移ろいにつれて、または継起する天下の出来事に目をみはりつつ、あちらの先達やこちらの知友の名吟佳吟と、いささか勝手ながらおつきあいいただいて三々五々、連れ立って歩いていこう」というもので、古人近人とともにあゆむ一九二七年生まれの著者の足どりはじつにしっかりしていて、「よみじへもまた落伍して除夜の鐘」と詠んだその落伍ぶりがうらやましい。

収められた七十三篇のなかから隅田川にまつわる二つの話を紹介してみよう。
まずは花火で、元禄の宝井其角の句「千人が手を欄干や橋すずみ」が一気に第二次大戦後に跳び、昭和二十三年に隅田川の花火が復活したときの人々のよろこびの姿を撮った木村伊兵衛の写真に重なる。ところがせっかくの花火大会は昭和三十六年川の汚染により廃止となり、昭和五十三年に再復活したものの、このとき多くの地元住民に高層化したビルが衝立となり路地からの花火は目にできなくなっていた。
狭い路地裏の淡き夢が消えるいっぽうで絶好の眺めを提供したのが高層ビルの窓だった。このビル群にくわえ平成二十四年には六百三十四メートルのスカイツリーが聳え立った。そして結びには其角とはおよそ百歳ちがいの小林一茶が漂泊三十六年のはて信濃に帰郷した際の句「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」が引かれる。元禄から平成のこんにちにかけての折々の社会相がいくつかの花火として隅田川の川面に映って見事というほかない。
もうひとつは永代橋の話題で、小沢さんは江戸中期の俳人炭太祇の「橋落ちて人岸にあり夏の月」を示したうえで徳川十一代将軍家斉のときの永代橋の崩落を引き合いに出す。
富岡八幡宮の十二年ぶりの大祭に大勢が繰り出した。このとき公方様の御座船が永代橋をくぐるので橋はいったん通行止になった。船が橋の下を通り過ぎ、東西の橋詰が同時に解禁されてあまたの人たちが橋上でかち合ったからたまらない。その圧力で橋の中ほどが崩れ落ち、あとから押し寄せてきた人たちも落下し千四百余名が落命した出来事は、蜀山人が「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」と嘆じた。
永代という美名にはご用心で「そうか。永代とは、安全神話のたぐいであったのか。してみれば、この地震列島に原発を五十四基も、交付金をばらまいて建てならべ、あげくに福島原発が崩壊して、家郷を追われた人々が十四万人。蜀山人の嘆きが、百倍にもなってこんにちに届くようです」というのが著者の嘆きである。
新書版で二頁ほどの短文はエッセイ、随筆、コラム、雑文いずれとも呼ばれようが、わたしは句作もされる著者の俳文としたくて念のため語釈を見ると「俳諧的な感覚で書かれた詩的散文」「俳人によって書かれた俳諧趣味を帯びた文章」とあった。本書は伝統の俳文が現代に甦りまた継承された一書に違いない。
俳文の名品として知られる横井也有『鶉衣』岩波文庫版の惹句には「高雅にして軽妙」「修辞的技巧を凝らしながら、機知に富んだ温かなまなざし」を身の回りに注ぐとある。本書もまた。