オールド・パーを読み、そして飲む

エリック・アンブラー『グリーン・サークル事件』を興味深く読んだ。激動の中東をめぐる国際政治のなかでパレスチナ解放機構PLO)から絶縁され分派活動をつづけるテロ組織が中東で同族企業を経営するマイクル・ハウエルを誘拐同様の身に置いて全面的な協力を強要する。そのため工場の一部は爆弾製造の秘密基地と化し、所有の船はテロ実行の際の運搬ならびに指令基地として使われるはめになる。

はね上がり分子が民間人の経営者を巻き込んで企てるイスラエルへの無差別テロに対し、アングロサクソンの血をわずかに引く東地中海の男(The Levanter)ハウエルに残された道は面従腹背を保ちながらテロを阻止し、かつ自身を守り、会社の存続を図るほかない。
このアンブラー得意の巻き込まれ型冒険小説は1972年CWA最優秀長編賞を受賞している。出版はこの年の六月で、この三か月あとにミュンヘンオリンピックイスラエル選手村で「黒い九月」によるテロ事件が起きた。結果として無差別テロの危険を察知していたのはアンブラーの嗅覚それとも慧眼だったか。
ところで本作が創元推理文庫の一冊として刊行されたのは2008年。わたしが知ったのは今月のはじめで毎度情報に疎い身を反省したことだったが、それを棚上げして言えば日本の出版界もだいぶん後手に廻ってしまっている。
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小山正の大著『ミステリ映画の大海の中で』(アルファベータ)に収められている「ミステリマガジン」二00六年一月号の連載記事によるとエリック・アンブラーは本国のイギリスでも忘れられかけた存在になっているらしい。ここで筆者は英国のミステリ情報誌Crime Timeでアンブラー再評価の特集が組まれているのを紹介している。
〈曰く、グレアム・グリーンジョン・ル・カレに大きな影響を与え、英国で最も重要な作家であるにもかかわらず、現在は忘れ去られてしまっている。とりわけ、代表作の長篇『ディミトリウスの棺』と同じくらい重要な作品The Levanterが埋もれているのが惜しい、等々。〉
というのがその趣旨で、文中のThe Levanterが『グリーン・サークル事件』にほかならない。このときはまだ邦訳されていなかったから原題で紹介されていた。
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種村季弘『書国探検記』(ちくま学芸文庫)を読んで、久しぶりの同氏の読書随筆に貫禄の違いを感じた。捕物帖の参考書として『江戸名所図会』、矢田挿雲『江戸から東京へ』、三田村鳶魚の随筆、青蛙房の江戸風俗関係書を挙げているところなど、当然とはいえ本好きには堪えられない。
冒険小説に眼を移すと『ディミトリウスの棺』のエリック・アンブラー、『007』のイアン・フレミング、『プリンス・マルコ』のジェラール・ド・ヴィリエを比較し、アンブラーをオールド・パー、フレミングをホワイト・ホース、ヴィリエをJ&Bとそれぞれをウィスキーの銘柄にあてはめている。
プリンス・マルコシリーズは読んだことはないが、J&Bとした所以はクセがなくスイスイ飲めるかわりに飲んだかどうかわからないうちにさっと醒めてしまう。なるほどね。
といった次第でエリック・アンブラーのファンとして昨夜はちょいとオールド・パーを口にした。

このところ晩酌のひとときにDVD「新・ヒッチコック劇場」を見ている。世界規模で絶大な人気を誇ったオリジナルの「ヒッチコック劇場」から三十九のエピソードを選び、新キャスト、カラーで忠実にリメイクしたもので、もちろんヒッチの声は熊倉一雄さんだ。ひとつ二十数分で味わえるサスペンスがウィスキーと肴に花を添えてくれる。
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長く翻訳書の出版と海外作家の著作権にかかわった宮田昇の『新編戦後翻訳風雲録』(みすず書房)は戦後の翻訳界の回想記かつ訳者たちの列伝である。
名を列ねる一人、オーウェル1984年」やフリーマントルのノンフィクション「KGB」「CIA」など多くの訳書で知られる新庄哲夫は秘めやかな情事に無類の関心を示すウォッチャーだったという。著者は、新庄氏から思いも寄らない二人が男女の仲であると教えられ、あとで事実と知ったという。
秘めたる情事がどうしてわかるのか。この翻訳者は、なにげない酒席でのしぐさ、やりとり、そして男女でいえば男ではなく、女の些細な動きからおしはかっていたようだ。男は隠せるが、女は隠し通せないというのがその意見だった。もちろん隠された男女の仲を知るのは自身の豊富な女性体験があってのことだった。
仁義なき戦い」や「極妻」シリーズをプロデュースした日下部五朗の著書『シネマの極道』に「青春の門」のときの深作欣二松坂慶子の様子が語られていて、著者は映画完成のあとキャンペーンで札幌へ行き一夜の締めくくりにラーメン屋へ行き、そこで監督の残したラーメンを女優が啜ったのを見て二人の仲を知ったとある。新庄哲夫の説くように、男は隠せるが、女は隠し通せないのか。
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厚木淳は東京創元社編集長また翻訳者として海外ミステリー隆盛に功労のあった人だが、その実家は永井荷風も通っていた下町の町医者だったと、宮田昇『新編戦後翻訳風雲録』にあった。昭和三十年代なかば、実家の不動産が処分され、遺産の分配があり、つつましやかな生活をつづけるいっぽうでゴルフや骨董に打ち込んでいたいう。
厚木家の家系を知って何がどうなるわけでもないけれど荷風ファンとしてはこうした人的関係は見逃せないし、ミステリー大好きの者としてもなんとなくうれしい気持になる。『断腸亭日乗』を見ると、厚木家の医院は土州橋病院として出ている。
人的関係といえば先日アンソニー・ホプキンスヒッチコックに扮した「ヒッチコック」を観てスティーブン・レベロ『メイキング・オブ・サイコ』を読み返したところ「サイコ」のスタッフにジョーン・ハリソンがいた。ヒッチの秘書を務めたあと「レベッカ」や「断崖」等で共同脚本を書いたこの人がオールド・パーのエリック・アンブラーの夫人である。