『北槎聞略』のことなど

五月末にサンクトペテルブルクとモスクワを旅した。写真はそのとき訪れたエカチェリーナ宮殿で、ロマノフ家が五月から八月末にかけて滞在した夏の宮殿として知られる。サンクトペテルブルク圏内のプーシキン地区にあり、大黒屋光太夫はここでエカチェリーナ二世に謁見し、帰国を懇願した。ちなみに冬宮殿はエルミタージュだった。

一七八二年十二月回米船の船頭大黒屋光太夫と乗組一行が駿河沖で遭難し、七か月の漂流ののち当時ロシア帝国の属領だったアリューシャン列島のアムチトカ島にたどり着いた。その後、仲間の多くは亡くなった。生き残り組のうち二人はロシアに定住した。けっきょく帰国を切望した光太夫、磯吉、小市の三名が女帝の許可を得て、遣日使節アダム・ラックスマンに連れら根室へ入港した。一七九二年のことだった。
小市はまもなく死亡。光太夫と磯吉は漂流とロシアでの体験を幕府に伝えた。聞き取った一人に幕府医官蘭学者桂川甫周がいた。かれは自身の知識またオランダ語の地理書等をふまえ光太夫と磯吉の話の内容を検証するなどして『北槎聞略』を著した。
そこで旅の復習として『北槎聞略―大黒屋光太夫ロシア漂流記』(亀井高孝校訂岩波文庫)と井上靖おろしや国酔夢譚』(文春文庫)を読んだところ、ともに感銘深い名著で、ロシア旅行の賜物としてうれしく、これからも旅が心の世界をも広やかにしてくれるよう願った。
併せて後者を原作とする映画を見直したところ夏宮殿、冬宮殿が美しく撮られており、また光太夫緒形拳)の女帝(マリナ・ヴラディ)への謁見の場面はかつてとおなじ部屋で撮影されていた。

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上野のスターバックスでコーヒーを飲んでいると、隣にいたわたしと同年輩とおぼしい男の方が「舛添知事というのはとんでもない人だねえ」と話しかけてきた。公金のカスリに憤懣やるかたなく、思わず誰かに声をかけずにいられなかったのだろう。わたしは「豪勢な旅行や贅沢は政治資金ではなく自分の金でするべきですよ」と応じた。
舛添知事を含め政治資金をめぐる不祥事が頻発している。政治資金制度は再考の時期に来ているのではないか。愚考するに、公費による政党助成はデモクラシーの育成と健全な運営にかかる経費とし、個人、法人の政治献金は禁止する、使途については相応な規定を設けて違反には厳しい姿勢で臨むべきではないか。
使途の線引きが困難であれば、総務省に審査相談機関を設け、そこでの内容を公表すればおのずと慣習法として定着してゆくだろう。議員事務所の借料家賃はよいとして、そこに飾る掛け軸絵画のたぐいまで公費が使われるのは納税者としてたまったものではない。
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四面楚歌に陥った舛添東京都知事が辞任した。いくつか論評を読むなかで、ネット上にめずらしく舛添氏を擁護する意見があった。著者名も記事のタイトルも失念したが議論の骨子は、氏がせこいのは言うまでもないが、政治資金の使途を法律は規定していない以上、第三者の目線で判断を得たいと調査依頼を受けた弁護士が言うように都知事に違法性はなく、それを寄ってたかって糾弾し、辞任を迫るのは衆愚政治にほかならない、というものだった。
わたしはこの論者とは違い、知事は辞任すべきだと考えていた。ただ、かねてより自分が質問できる立場にあれば「第三者の目で見て違法性がなかったならば、どうして議場で謝罪したりするのですか」と質してみたいと思っていたから発想には似たところがあるように思った。
違法かどうかを判断の基準として辞任をしないというのであれば、適法を押し通して堂々としていればよいのである。とはいえ、ことは司法ではなく政治の場での出来事だから、法律に違反していなくても議員、都民は収まらない。法律と政治について考える格好の素材で、わけても新しく有権者になる十代のみなさんにはじっくり検討してほしい問題である。
舛添氏は秀才、切れ者と聞く。その方にして、社会常識からすれば疑問符が付く政治資金の使途や行動が仮に表に出たとしても、適法だから謝罪すればなんとかなると考えていたのだろうか。それともはじめからそうした問題意識はなかったのか。みんながやってること、問題視されるのは運の悪い奴、そうなったとしても自分だけは大丈夫というほど世の中は甘くない。いずれにせよ東大で国際政治学を講じていた人にしてはあまりにディフェンス力の弱い、未熟な政治的思考だった。
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旧聞に属するが、昨年の七月には満月が二度あり、二度目の満月はブルームーンと呼ばれていた。大気中の塵の影響により月が青く見える現象をブルームーンと呼ぶことから、稀にしか起こらないその二度目の満月をもブルームーンとしたという。戦前のディック・ミネのヒット曲「上海ブルース」には「ガーデンブリッジ誰と見る青い月」という一節があった。
『死都ブルージュ』で知られるジョルジュ・ローデンバックの短篇「恋人たちの夕暮」は「郷愁を呼び起こす喇叭の音が、昇りくる赤い大きな月によって吹かれるかのように再び響きわたる」と結ばれる。(『ローデンバック集成』高橋洋一ちくま文庫
月はときに青く、また赤く見える。月は地平線(水平線)に近いとき赤く見えやすい(国立天文台)。
月の色と同様に太陽の色もさまざまで、国旗に例をとるとわが「日の丸」の赤があり、中華民国の「青天白日旗」に白がある。巷間、激しいエッチの明くる朝には黄色く見えるとされる。黄色い太陽か、このまえ見たのはいつだったかなあ。
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上下巻千二百頁を超えるドン・ウィンズロウ『ザ・カルテル』(峯村利哉訳角川文庫)に質量ともに圧倒された。小説として物語に惹かれたのはもちろんだが、この本にはフィクションとかノンフィクションとかのジャンル区分を吹き飛ばす内容と気迫がこもる。麻薬の世界の実態と分析と怒りが一体化した作品だ。

先行の名作『犬の力』は米国麻薬取締局捜査官アート・ケラーとメキシコの麻薬王アダン・バレーラとその周囲の人々の一九七五年から二00四年にわたる闘争の物語だった。これを読んだときは迫力や怨念、詭計が織りなす面白さとともにメキシコの悲劇、哀情を感じたものだった。
『ザ・カルテル』は『犬の力』で収監されたアダン・バレーラの脱獄からはじまる。捜査陣と麻薬供給陣営との闘い、供給陣営内部の武闘、それらの煽りで命を奪われた人々、現状を一歩でも良い方向に動かしたいと願う市民が浴びせられた犠牲など、麻薬をめぐる凄まじい実態が描かれている。資本主義社会のトータルな分析を企図した『資本論』に対比すれば本書は麻薬社会の『資本論』だ。
本書に「一部の人は顔をしかめているぞ、アート。いったいどっちの側に立っているんだとな」と上司に詰め寄られる場面があり、捜査官アート・ケラーは「誰が顔をしかめていようと、わたしには屁でもありません。どっちの側かと言われれば、わたしは自分の側に立っています」と応える。拳々服膺したい名セリフだ。
タフで優しいはフィリップ・マーロウの決めゼリフだが、精神、肉体ともにタフな男の(いや男女は問いません)重要な内実を「どっちの側かと言われれば、わたしは自分の側に立っています」という言葉は見事に示している。
自分を代表するのは自分でしかない。組織との軋轢は避けられないけれど究極の立場はここにある。『ザ・カルテル』はハードボイルド小説ではないがバックボーンはハードだ。
舛添知事の辞任騒動を念頭におくと、第三者の目線や判断はときに、自分に責任を持てない、自分を代表できない者が事態を糊塗しようとするために用いる道具に転化するらしい。