「バークリースクエアのナイチンゲール」

子供のころナイチンゲールという鳥類の名前を聞き、その前に近代看護教育の母フローレンス・ナイチンゲールさんを知っていたので、おなじ名前なんだなあと思ったようにおぼえているが、ひょっとするとその逆で、先に鳥の名前を知っていて、おなじ名前の人がいるんだと不思議な気がしたのかもしれない。
シャズに親しむようになり、アニタ・オディの名唱で「バークリースクエアのナイチンゲールa Nightingale sang in Berkeley Square 」(Eric Maschwitz作詞、Manning Sherwin作曲)という曲を知った。
一九四0年にロンドンで初演されたレヴュー「New Faces」にある曲だからイギリス生まれのスタンダードナンバーである。
真夏の夜のジャズ」で「スイート・ジョージア・ブラウン」を大胆なフェイクを交え奔放に歌っていたアニタ・オディが、ここでは繊細な抒情を湛えて歌っていて、聴くうちに胸が熱くなった。

バークリースクエアはロンドンのメイフェア地区にあり、とくに特徴もない小さな公園だそうだ。ときどきこの曲をナット・キング・コールフランク・シナトラマンハッタン・トランスファー等のヴォーカルやグレン・ミラー・オーケストラやスタン・ゲッツ等のインストゥルメンタルで聴き、最後はアニタ・オディで締める。初恋のキュートな女性を忘れかねているような気持。

「間違いじゃないわ。わたし信じてる。あなたが振り向いてわたしに微笑みかけたとき、たしかにバークリースクエアではナイチンゲールが歌っていた。星が敷き詰められたような通りで起こったとてもロマンティックな出来事だった。キスをしてさよなら言ったときバークリースクエアではナイチンゲールが歌っていた。」
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「バークリースクエアのナイチンゲール」はフリッツ・ラング監督が「マンハント」で用いている。一九四0年に舞台で歌われた曲を翌年公開の映画に使っているから素早い。

ヒトラー暗殺のかどでゲシュタポに捕らえられたソーンダイク大尉(ウォルター・ピジョン)はかろうじて逃れてイギリスに帰国する。しかしここにも追手は迫っていて、夜のロンドンの町を逃げながらソーンダイクはやむなく見知らぬアパートの一室に隠れる。そこはジェリーという女(ジョーン・ベネット)の部屋で、突然の侵入者に驚くが、気のいい彼女はかくまってやる。金を貸してくれというソーンダイクに、ジェリーがスカートをたくし上げてストッキングにはさんである紙幣を取り出すところで娼婦であることが暗示されている。汚れなき心をもつ娼婦。
あとで、ソーンダイクが借りた金を何倍にもして返そうとするのをジェリーは断り、愛用の帽子につけるからとささやかなブローチをねだる。このブローチが二人の愛のしるしであり、恋する二人のシーンでは愛のテーマである「バークリースクエアのナイチンゲール」が繰り返し奏でられる。可憐で愛らしいジェリーはナイチンゲールのイメージにふさわしい。
マンハント」はフリッツ・ラング監督の反ナチスものの最初の作品で、「死刑執行人もまた死す」「恐怖省」「外套と短剣」がこれに続く。サスペンスの切れ味では「死刑執行人もまた死す」の評価が高いけれど、音楽は「マンハント」に叶わない。
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須賀敦子『ミラノ霧の風景』にもナイチンゲールの鳴き声が語られている。
イタリア中部の都市ペルージャの大学に在籍していたときに、下宿先の家族にルシニョーロ(ナイチンゲール)の鳴き声を聴いてみたいと言ったところ、それじゃあ今晩あたりみんなで起きて待っていようとなったという。一九五三年(昭和二十八年)だから日本もイタリアも戦後の風景が残っていた時期だった。

著者は大学で英文学を勉強していて、いろんな詩に「夜鳴鶯」(小夜啼鳥サヨナキドリとも表記される)が出ていて、かねてより鳴き声を聴いてみたいと願っていた。ところがその夜ルシニョーロはなかなか鳴いてくれない。もうあきらめて寝ましょうと言うたびに、いままで待ったのだから、もうすこし、もうすこし、と引き延ばすうちに夜は更けていった。

「ほんとうに諦めたころ、それは午前二時ごろだったと記憶している。遠くのほうで、思いがけなく高い、震えるような声が空中に湧きおこり、消えるかと思うと、またつづいた。それは哀しみとも、歓びともつかぬ、なんとも神秘的な声で、かなりな時間、澄んだ夜気をつたわって響いた。いまもあの夏の夜のことをときどき思うのだが、あのとき、ほんとうにルシニョーロの歌を聴いたのかどうか、ひょっとしたら眠さのあまりの幻聴だったのではないかと思えるほど、あの声はこの世のものならぬ響きをもっていた。」

夜に鳴くといってもいつもいつも日付が変わった深更というものではないだろう。そうでなければみんなで早くから待ったりはしないはずだから。
曲想から思うに、バークリースクエアで恋人たちがナイチンゲールの歌うのを聞いたのは午前二時よりはずっと早い時間帯、九時前後ではなかったかと推測している。早鳴きはたぶんこのころで、これから須賀敦子が聞いた午前二時から三時くらいまでがナイチンゲールの鳴く時間ではないのかな、と勝手に想像している。
物好きだといわれそうだけれど、いつかバークリースクエアを訪れてナイチンゲールの鳴き声を聞いてみたい。時間帯は問わない。星が敷き詰められたような通りでキスをしながら、なんて贅沢も言わないから。