サスペンス映画や「上海リル」のことなど

逢坂剛×川本三郎『さらば愛しきサスペンス映画』(新書館)を読み、毎度のことながらお二人の見巧者ぶりと鬱蒼たる知識に圧倒された。和田誠さんのロバート・ミッチャムフィリップ・マーロウのイラストもうれしい。こういう本を読むと先達に感謝したくなるのは当然だが、さっそく未見の映画のDVDを五本注文したりして、ほかにもどうしようかと迷っているからふところ具合にはよくありません。

ビリー・ワイルダー「深夜の告白」のバーバラ・スタンウィックについて川本氏が、そんなに美人だと思わないしスタイルもさほどよくないのになぜあんなに人気があったり尊敬されたりしているのかと言えば、逢坂氏が田中絹代みたいなもんかなあと応じる。すると川本氏が、それは心外、田中絹代は小柄で可愛くてとバーバラ・スタンウィック田中絹代をひとくくりしたことに大反論。対談本はこういうところがたのしい。
そこでわたしも参加してひとこと。バーバラ・スタンウィックは一筋縄ではいかないクセのある美人だと思うが、それよりもスタイルについての断定には異論がある。「深夜の告白」では美貌の人妻のアンクレットを着けた脚にフレッド・マクマレイが魅せられやがて犯罪に手を染めるにいたった。「レディ・イヴ」では世間知らずの御曹司ヘンリー・フォンダが美人詐欺師の出した脚に蹴つまずいたのがきっかけで恋仲になった。いずれも彼女の脚線美なしにこれらフィルムノワールスクリューボールコメディの名作は成り立たなかったことを思えばスタイルがどうのこうのとは言ってほしくないな。

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このところ新宿武蔵野館の上映記録を収録した『キネマの楽しみ』(新宿歴史博物館)を眺めながら戦前のジャズを聴いている。
当時のジャズを代表する曲のひとつに「ダイナ」がある。はじめはディック・ミネと、それをコミックソングとしたエノケンの持ち歌と思っていたがさにあらず、「ニッポン・モダンタイムス」シリーズのCDだけでも林伊佐緒、岸井明、スリー・シスターズ、宮下昌子の「ダイナ」が含まれていて、それぞれ工夫を凝らしたアレンジでうたっている。さすが戦前のジャズを代表する曲にふさわしい多彩さだ。
なかで林伊佐緒が多紀英二の名前で吹き込んだ「ダイナ」は思いも寄らないヴァージョンだった。あとから思うと真室川音頭をブギに編曲してヒットさせたように林伊佐緒のセンスはジャズに通じていたと納得はしたけれど、さいしょは驚きが先に立った。毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』には林伊佐緒=多紀英二について「本職のジャズアレンジャーとはまったく異なるリズム感覚と楽器編成で独自のスウィングを表現した」とある。
「ダイナ」についてはほかに徳川夢声が『いろは交友録』でリキー宮川の唄を最高と讃えている。リキー・宮川は米国生まれ、一九三三年(昭和八年)に来日し、翌年歌手デビューしたが戦後若くして亡くなった。「ニッポン・モダンタイムス」には彼の歌もあるが「ダイナ」は収められていない。そのうちぜひ聴いてみたいものだ。
リキー・宮川が来日した一九三三年のワーナー映画に「フットライト・パレード」があり、ここでジェイムズ・キャグニーが「上海リル」をうたっている。こちらも「ダイナ」と同様戦前のジャズを代表する名曲で「ニッポン・モダンタイムス」シリーズには唄川幸子とディック・ミネの歌が収録されている。唄川は服部龍太郎訳詞の〈街という街から 丘という丘を あちらもまたこちらも 探すは上海リル〉ではじまる歌詞を、ミネは津田出之訳詞の〈思い出を追いつつ さまよい来たれど 還らぬは優しき人 いとしの上海リル〉の歌詞を用いている。
他方でディック・ミネは川畑文子の「上海リル」に編曲と〈明るいシャンデリア 輝くさかづき 狂わしきジャズの音に 踊るは上海リル〉ではじまる訳詞を提供している。このレコーディングが一九三五年一月でミネ自身は同年十一月に同曲を吹き込んだが、自身の訳詞ではなく、さきほどの津田出之の訳詞を用いた。
ところが手許にある戦後のステレオ盤では唄川幸子ヴァージョンの歌詞を用いている。「思い出を追いつつ」と「街という街から」の二つの「上海リル」、歌手は戦前と戦後で歌詞を変えたのか、それとも併用していたのか、ステレオ盤で後者を吹き込んだのは特別の機会だったのか、そこのところの事情はよくわからない。ステージではあまり歌わなかったようで、懐メロ番組でこの曲を聴いたおぼえがない。
わたしがいちばん愛聴するのは川畑文子の「上海リル」を現代に甦らせた「上海バンスキング」の吉田日出子で、ピアノの熊坂明トリオとクラリネットによる伴奏も絶品だ。
戦前ではほかに江戸川蘭子のレコードがあり、こちらはまた別の歌詞が付けられている。のちに鶴田浩二が哀調を帯びたムードで「街という街から」の歌詞でうたっている。
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ある飲み会の流れで久しぶりにカラオケへ行った。さいきんはもっぱら由紀さおり&ピンク・マルティーニのアルバム「1969」から選んでいるが、どうもちかごろ歌が下手になってきているような気がしてならない。もとは上手だったいうつもりはないが、ときどきは、うん、なかなかいい線行ってるくらいは感じていたのにこれがとんとない。キィが合いにくいということからして危うい兆候で老化が体力や気力よりもさきにカラオケ力に現れてきているみたいなのだ。カラオケ店へ出入りする機会が減って練習不足の結果と思いたいけれど果たしてどうか。

「歌を歌って調子が外れるのがいるでしょう」
「音痴か」
「そういうのを犬吠岬と云うのです」
「どうもよくわからない」
「銚子の外れにありますから、だから調子っぱずれです」
内田百けん(門がまえに月)『第三阿房列車』に収める「房総鼻眼鏡」にある話だが作者の創作か昔からいわれていたのかは知らない。
「参ったな」を地名にかけて「恐れ入谷の鬼子母神」と洒落るのはよく知られている。「よろず吉原山谷堀」「嘘を築地の御門跡」「きょうか飛鳥の花見時」などもいずれも調子のよさからするかけことば、語呂合わせだが、地理上の位置から犬吠岬=銚子(調子)の外れといった例はめずらしい。 
わがカラオケ力の劣化を厄に見立ててそのうち犬吠岬へ厄落としに行ってみよう。
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テアトル銀座でミヒャエル・ハネケ監督の新作「愛、アムール」を観た。ストーリーとしては「東京物語」で妻の東山千栄子が寝たきり状態になり、夫の笠智衆は入院を拒否する妻の意を汲んで介護するという事態を想定すればよい。もう一つの「東京物語」であり、普遍性のある問題を扱った作品だ。
楽家の老夫婦に一人娘はいるが精神的なつながりにおいて「東京物語」の次女の香川京子や亡くなった次男の嫁の原節子とは較ぶべくもない。

正岡子規は『病床六尺』で、躯のケアよりも脇で新聞や本を読んでくれる精神的なケアが大事だから女も教育を受ける必要があると書いていたと記憶するが「愛、アムール」のばあいはその精神的なケアを受け付けられない状態に陥る。もう一つの「東京物語」は正岡子規が想定したもう一つ向う側の世界であり、歳月をともにした夫婦が介護、要介護の関係になったあとの愛の行方が微細、リアル、冷徹に描かれる。ときにクラシックのピアノ楽曲が用いられる場面を含め一貫して情緒的に流れる描写はない。監督の姿勢のあらわれだろう。
夫をジャン・ルイ・トランティニャン、妻をエマニュエル・リヴァが演じる。若き日のシーンも含めて全編緻密な構成をもつ室内劇をこれほどに厳格かつ柔軟に演じられるのはこの二人の名優をおいてほかにいるのだろうかと感じさせられた。