ラグビーW杯フランス大会開幕

九月四日。ダナン空港を発ち無事成田に到着。往復の航空機では読書スランプながらほかにすることもないので若山牧水の歌集と随筆を読んだというより眺めていた。なかの一首。

人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ

これと似た、ウィスキーなしに人生はないといった文言をどこかで読んだ気がするけれど思い出せない。もう一首

酒の香の恋しき日なり常盤樹に秋のひかりをうち眺めつつ

牧水の随筆「酒の讃と苦笑」に「私は獨りして飲むことを愛する。かの宴會などといふ場合は多くたゞ酒は利用せられてゐるのみで、酒そのものを味はひ樂しむといふことは出来難い」とあった。酒は好きだが、宴会の嫌いなわたしとしてはうれしい意見であり、まさしくわが意を得たり。

もちろん牧水も「心の合うた友だちなどと相會うて杯を擧ぐる時の心持も亦た難有いものである」というのを忘れない。「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみは人にゆるさじ」と詠んだ歌人はまた「いざいざと友に盃すすめつつ泣かまほしかり酔はむぞ今夜」と朋友との一献を讃える人でもあった。

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九月八日。台風が関東地方に接近し、終日降雨。自室に籠城しズート・シムズボブ・ブルックマイヤー共演のアルバムを聴いていると「九月の雨」が流れた。September In The  Rainというナンバー、いま聴くズートのバージョンやジョージ・シアリングクインテットではおなじみだがボーカルではスー・レイニー「雨の日のジャズ」のほかにはあまりなじみがない。手許にあるジャズナンバーの歌詞集を開いたが収められていない。ネットで「九月の雨」と打つと太田裕美の曲として歌詞が紹介されていたけれどまずはジャズのほうである。そこでSeptember In The  Rainで検索をかけてようやくジャズバージョンの歌詞を見つけた。

〈The leaves of brown came tumblin' down, remember / In September in the rain〉

茶色の葉が落ちていたのを覚えている、雨の九月に、というのが歌い出し。九月に茶色もしくは赤茶けた色の枯葉というのだから日本と較べてずいぶん早い変色である。

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九月九日。ラグビーワールドカップフランス大会が開幕した。数えて第十回大会。開幕戦はフランス対ニュージーランド。真偽は不明ながら開催国は開幕試合の相手を同じプールから自由にブッキングできると聞いたことがある。事実とすればさっそく優勝候補を相手に選んだフランスの心意気がうかがわれる。NZより戦いやすい相手との対戦から調子を上げていく戦略だってありえたと思うが、フランスは正面突破というかいきなり優勝候補打倒に賭けた。ハイリスク、ハイリターンで、もし負けると決勝トーナメント進出に向けた緊張度は増すばかりとなるが、そうした心配より勝利の確信を抱いて決戦に打って出たわけだ。

結果は27対13でフランスが勝利した。素晴らしい試合だったがレフェリングには疑問が残った。わたしがラグビーの試合で笛(レフェリー)を云々するのは余程のことと断ったうえでいう。全能ならぬレフェリーを補佐するのがアシスタントレフェリーそしてTVマッチオフィシャルだがこれも機能してこそ意味がある。映像で見るとNZ後半2分のトライを生む前のパスはフォワードパスか否か、微妙なもので、当然ビデオ判定になるだろうと予想したが、レフェリーのジャッジは問題なし、アシスタントからもTVマッチオフィシャルからもビデオ判定の提起はなかった。

これについて某紙は「(リッチー)モウンガがコンバージョンを失敗した後に大スクリーンに映し出されたリプレーは、レフェリーのジャコ・ペイパーに向けられた(ブーイングの)音量を増加させるばかりだった。場内で映像が流れると、ブーイングが増大。さらに(マチュー)ジャリベールがボールを持っていない状態で倒されたにもかかわらずプレーが続行された時には、この南アフリカ人審判の人気はさらに沈んだ」と伝え、この記事を取り上げたイギリスBBCはリードを「審判の人気は沈んだ」とした。

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読書のスランプがようやく癒えてきて活字を追ってみようという気になった。こういうときは得体の知れぬものより、まえに感銘を受けた本の再読がよい。高く評価した本だから頁を繰る力は強く、大筋はわかっているから細部に目が届きやすい。そこで渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を手にした。

「(幕末から明治のはじめに来日した異邦人たち)彼らが見たのは、まさにひとつの文明の姿だったというべきだろう。すなわちそれは、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だったのである」

「滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らなければならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである」。

「日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちである。」 

こうした観点から記述された逝きし文明の姿は多彩かつ魅力に富み、なかでもその魅力は

「下層階級の市井の生活にある。…日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術」にあると著者はいう。

スランプに陥った読書からの脱却の一助になれかしと、Amazon Kindleのカヴァーがだいぶん古びていたので新しいのに換えてみた。気分一新、新しいカヴァーで心も軽くである。

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ジャニーズ事務所についてはなんにも知らなくて、せいぜいYouTubeのアンオフィシャルの動画にいちばん厳しいパトロールを行っているのがこの事務所だと聞いたことがあるくらい。そこでWikipediaにあるジャニーズ事務所についての記事を一読した。一九八0年代から九0年代にかけてデビューしたシブがき隊、光GENJI、少年隊、男闘呼組SMAPなどの記述があったが、いずれもグループ名を知るのみで、このころは、わが人生のなかでもとりわけテレビとご縁のない時期だった。

それはともかく、事務所の利益追求と社長の異常なセックスは構造としてはハーヴェイ・ワインスタインの女優への性加害と同様と考えてよいだろう。ワインスタインの女優への性加害については、被害者の勇気ある問題提起により大きく報道された。わたしはこの報道に接しながら、だったら日本の芸能事務所にはこの種の問題はないのかと考えたことすらなかった。反省である。

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YouTubeにChicos De Pampa(チコス・デ・パンパ)というアルゼンチンタンゴバンドの動画があり、一聴、素敵な演奏に魅せられた。ピアノ、バイオリン、バンドネオンコントラバスの四人編成、ファン・ダリエンソ楽団のスタイルを範としたパワフルでシャープな演奏が特徴だ。

日本のアルゼンチンタンゴの世界では有名どころなのだろうが、わたしははじめてで、そのうちご近所でコンサートがあれば行ってみたい。「ラ・クンパルシータ」「カミニート」「淡き光に」といった正統タンゴナンバーとともに「夜のプラットホーム」など和製タンゴが演奏されるのが嬉しい。

その「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詞、服部良一作曲)は昭和二十二年、二葉あき子の歌で大ヒットしたが、もとは原節子主演「東京の女性」(昭和十四年)の挿入歌として淡谷のり子が吹き込んでいたが、プラットホームでベルが鳴り、さよなら、さようなら、君いつ帰るといった歌詞が検閲に引っ掛かり発売禁止となった。映画を観たところ淡谷のり子の歌はなく演奏だけが流れていた。

映画が公開された二年後、昭和十六年、発売禁止となっていた「夜のプラットフォーム」は「I'll Be Waiting」(「待ち侘びて」)としてタンゴの装いも新たにリリースされた。コンチネンタルタンゴの主流は三国同盟のドイツ、そこを利用して発売にこぎつけたのである。作編曲はR.Hatter(レオ・ハッター)、 作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)がボーカルを担当している。ただしわたしは未聴。それにしても服部良一が自身の名をもじって作ったレオ・ハッターの変名がふるっている。

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渡辺京二『逝きし世の面影』 を読み終え、よい機会だからおなじ著者の評論集『幻影の明治』(平凡社ライブラリー) を手にした。全六章とひとつの対談がおさめられていて、とくに第三章「旅順の城は落ちずともー『坂の上の雲』と日露戦争」が興味深かった。いわゆる司馬史観への批評で、司馬遼太郎作品の読書経験はほとんどないわたしにも『逝きし世の面影』を踏まえたうえでのこの議論はよく納得できた。

「明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった」という司馬遼太郎の江戸時代観はわたしでも、いかがなものかと思わざるをえない。「逝きし世」は司馬がイメージするのとはかけ離れた「面影」をもつ社会であったし、その文明は外来の文明開化の受容を可能にする高度な質を具えていた。「逝きし世」をマイナスとしか考えないまま組み立てられたのが『坂の上の雲』であるとすればずいぶんとおかしな話になる

渡辺京二はそこを衝いていう。「司馬は、明治日本のゼロから始まった近代化が成功したのは、世界史上の奇跡にほかならぬといいたいのだ。さらに、明治人はゼロからはいあがろうとする自分たちの位置を正確に自覚していたので、国運を賭した戦争を遂行する際にも(中略)合理的客観的な思考を保ったといいたいのだ」。

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九月十八日。ここ数年、この時季は歌舞伎と大相撲を恒例としていて昨日の日曜日は歌舞伎座夜の部、そのあと銀座のビヤホールで歓談。

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そして今朝。いつもはスマホでニュースを見てから床を離れるのだが、日本時間午前三時から中継があったラグビーW杯の結果を知ることなくTVのまえに座りたいのでスマホは手にせず起床。6:30にスタートして8km余ジョグ、帰宅して朝食、NHKの録画で日本vs イングランド(12-34)ついでオーストラリアvsフィジー(15-22)を見た。

昼食後、十両の土俵入りに間に合うよう国技館に向かい、午後二時前に到着。十両の土俵では「ひがし方、獅司、ウクライナ出身」とアナウンスがあったところでひときわ大きな声援と拍手、もちろんわたしたち四人も。観客の心意気を表しているようで嬉しかったぞ。

場内で缶ビールと焼き鳥、打出しのあとは両国駅構内の蕎麦屋で一献のしあわせ。

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ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(池田真紀子訳、新潮文庫)を読みはじめようとしている。長い、長いミステリーの一冊の文庫本となるとまずはウィルキー・コリンズ『月長石』を挙げなければならないけれど写真にあるように本書もそれに比肩するぶ厚さで、696 頁は読書意欲が刺激され、ファイトが湧いた。ちなみに『月長石』は779頁。

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この分厚く、長いミステリーの物語をイギリスのタイムズ紙は「No.1ベストセラーノワール」と評していて、わたしの期待は裏切られないと直感している。それに税別1150円というのもありがたく、単行本だと倍以上の価格になるだろう。新潮文庫に感謝だ。

丸谷才一は「少年時代ぼくは、いつまでも終りがない、長い長い物語があったらどんなに嬉しいだろうと夢想した。本の虫だったぼくは、せっかく本を買ってもらっても、あるいは借りても、あっけないくらい早く読み終えて、失望落胆するのが常だったのである」と書いた。(「長い長い物語について」『深夜の散歩』所収)

その丸谷さんが讃えた長い長いミステリーが『月長石』なのだ。いま前にあるのはおなじく長い長いミステリーの『トゥルー・クライム・ストーリー』、楽しみにしているよ。

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九月二十五日。朝、録画でラグビーW杯ウェールズvsオーストラリアを観戦、ウェールズが40対6で快勝した。オーストラリアはショッキングな敗戦で、対ウェールズ戦、点差、失点ともにワーストを記録した。

今回のラグビーW杯はまだ予選プールではあるが、フランスがニュージーランドに(27-13)、アイルランド南アフリカに(13-8)、そしてウェールズがオーストラリアに勝利したことで、これまでの南半球と北半球強豪国の構図が変化し、くわえてフィジーを中心とするアイランダーズの追い上げ、そのなかに日本がどこまで食い込んで行けるのかといった点でとても興味深い。

南北強豪国の構図の変化を象徴するのは二度の優勝を経験しているオーストラリアで、ここまでフィジーウェールズに敗れ、一九八七年の第一回大会からずっと連続してきた決勝トーナメントへの進出が極めて困難な現状にある。率いるエディ・ジョーンズ監督は名将に違いないが、W杯を前に負け試合が続いた結果、イングランドの指揮官を解任された同氏にオファーを出し、招聘した、というのがすでにワラビーズの窮状を示している。

フィジーがオーストラリアに勝ったのは大ニュースとして報道されている。たしかにこの試合までにフィジーはオーストラリアと二十二回戦って二勝しかしておらず、最後に勝ったのは一九五四年だったといった点では番狂せと映ったかもしれない。けれどW杯を前にした八月五日の対ジャパン戦(35-12)、八月二十六日の対イングランド戦(30-22)で勝った試合を見た限りではフィジーがオーストラリアに勝ったのは特別な「事件」ではなかった。オーストラリアの負けに不思議の負けなし、である。

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ぶ厚い文庫696頁にインスパイアされ手にしたジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(池田真紀子訳、新潮文庫)。第一感のひらめきどうりで、ぐいぐいと頁を繰って読み終えた。二0一一年十九歳のマンチェスター大学の学生ゾーイ・ノーランが失踪した事件を作家イブリン・ミッチェルが追う。

ミッチェルはゾーイの父母、双子の姉、ルームメイト、ボーイフレンド、担当の刑事等に丹念なインタビューを行い、その内容を編集、構成する。インタビューで語られるミステリーだが、いっぽうでミッチェルはおなじ作家仲間のジョセフ・ノックスに原稿を送り、意見を求めている。作者が実名で登場するメタフィクションである。

もちろんインタビューの内容は事実かどうかはわからず、加えて読んでいるのは「第二版」で、どんな手が加えられているのやら、初版との異同もわからない。ノンフィクション仕立てで語られる失踪事件に込められた偽装と騙り、二人の作家ミッチェルとノックスのやりとりのもやもやなどあの手この手で「重層的でミステリアスな面白さ」(本書千街晶之氏の解説)が追加される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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