「林檎の木の下で」

「林檎の木の下で」(In the Shade of the Old Apple Tree)という歌をご存じですか。
アメリカの作詞・作曲家ハリー・ウィリアムズ (Harry Williams) と作曲家エグバート・バン・アルスタイン (Egbert Van Alstyne) の共作として一九0五年に発表された楽曲で、のちにデューク・エリントン楽団によるリバイバル・ヒットもあり、日本では一九三七年にディック・ミネの歌でヒットした。日露戦争当時につくられた歌が「支那事変」の年に大流行したことになる。


〈林檎の木の下で 明日また逢いましょう/黄昏 赤い夕陽 西に沈む頃に
たのしく頬寄せて 恋を囁きましょう/深紅に燃える想い 林檎の実のように〉(訳詞・門田ゆたか)


青春まっさかりのあかるく、ほがらかな歌詞とかろやかなメロディ。灰田勝彦が歌ってヒットした「鈴懸の径」をジャズにアレンジした鈴木章治の慧眼はさすがだが、このアメリカの小唄を日本の歌としたディック・ミネのそれも勝るとも劣らない。
はじめて聴いたのはいつだったか記憶はさだかではないけれど、ディック・ミネが歌っていたのはしっかりおぼえている。
その後「上海バンスキング」の挿入歌として吉田日出子が歌うのを聴いてますます好きになった。さいしょのリリースはまだLPの時代だった。B面にある熊坂明のピアノトリオにクラリネットをくわえた伴奏で吉田日出子が歌ったヴァージョンに何度針を落としたことだったろう。

川端康成は『浅草紅団』で「一九三0年代型の浅草」をこんなふうに語る。
〈「和洋ジャズ合奏レヴイウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、東京にただ一つ舶・来「モダアン」のレヴイウ専門に旗挙げしたカジノ・フオウリイは、地下食堂の尖塔と共に、一九三0年代型の浅草かもしれない。
エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジヤズソングと、女の足とー。〉

「カジノ・フオウリイ」は榎本健一中村是公二村定一、望月美恵子(望月優子)たちが出演した軽演劇団として知られる。
久世光彦は『みんな夢の中』で、浅草が喚起するエロチシズムから女の足にいたるイメージを体現した曲として「林檎の木の下で」を挙げている。「浅草慕情」という舞台を演出したときは前から好きだったこの曲を主題歌にしたという。
じつは「林檎の木の下で」と浅草との結びつきはわたしには意外というかピンと来なかった。もちろんディック・ミネだって浅草の舞台で歌っていただろうが、歌が結ぶ土地は浅草より銀座や丸の内だと感じていた。
そんなことを思っているうちに野口冨士男が一九五四年に発表した「夜の鏡」という短編を読み、この歌が巧みに小道具として用いられているのを知った。
戦後、一年ちかく浅草のレビュー劇場でラインダンスの踊り子として出ていた葉子は、嫌気がさしてやめたのち、みずから決意して芸者に転ずる。ある夜、客が銚子を二本あけたところへ、女中が「お支度ができました」と告げる。葉子がその部屋へ向かおうと廊下の姿見に立ったとき、ラジオから「林檎の木の下で・・・・・・・・・・・・・・・恋を囁きましょう」とこの曲が流れてくる。
〈何処かのラジオから古い流行歌が聞こえていた。大きく裾のひろがったスカートをつけて髪にリボンを結んだ金髪の娘と、チェックの背広を着て古風な山高帽を手に持った男装の踊子が舞台の袖へ姿を消して行くのと入れ違いに、その歌のリズムに合わせてラインダンスになる。〉
浅草のレビュー劇場にいたころのはかない思い出である。
こうして野口冨士男の花柳小説を読み、久世さんがこの歌と浅草とを結びつけた感覚がようやく理解できたしだいであった。