「思い出のサンフランシスコ」

むかし英語の授業でleaveという単語を習ってかすかな戸惑いを覚えた記憶がある。去ると残していくというふたつの意味がうまく結びつかなかったのである。おっちょこちょいは去ると残るなら真逆じゃないかと思ったような気もする。

あらためて辞書の語釈を列挙してみると他動詞として、去る、出る、〜のままにしておく、置き忘れる、(人などを)置いていく、(伝言などを)残していく、残す、残して死ぬ、任せる、自動詞として出発する、がある。

その戸惑いと疑問を解いてくれたのが I left my heart in San Francisco(思い出のサンフランシスコ) だった。トニー・ベネットが一九五四年に歌って大ヒットし、彼のトレードマークとなった曲である。この曲を知ったいきさつは不明だが、あるいは英語の先生がleaveの例文として示してくれたのかもしれない。一九五三年ジョージ・コウリー(作曲)とダグラス・クロス(作詞)の二人のアマチュア作家がニューヨークに移ったあと、サンフランシスコへの郷愁を歌にしたもので、のちにサンフランシスコ市公認の讃歌となった。

The loveliness of Paris

Seems somehow sadly grey

The glory that was Rome is of another day

I’ve been terribly alone

And forgotten in Manhattan 

I’m going home to my city by the Bay

ここまでがヴァース。話者=歌い手は愛らしいパリと栄光のローマを旅したけれど十全の満足は得られなかった。マンハッタンではひどく孤独な生活が続いていた。そうだ、帰ろう、入江のわが街へ。

I left my heart in San Francisco

High on a hill, it calls to me

To be where little cable cars

Climb halfway to the stars

The morning fog my chill the air

I don’t care

My love waits there in San Francisco

Above the blue and windy sea

When I come home to you, San Francisco

Your golden sun will shine for me

When I come home to you,San Francisco

Your golden sun will shine for me

 

心をサンフランシスコに残したまま、ローマやパリあるいはマンハッタンへと去った自分がサンフランシスコに回帰してこの町の魅力を讃える。この歌でようやくleaveのふたつの意味が結びついた。話者=歌い手には黄金の太陽が輝き、その歌詞で英語の勉強をしていたわたしは単語の理解ができたのだからご同慶の至りというべきだろう。

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かれこれ四十年ほどまえ、旅先のレコード店にリー・ワイリーの輸入盤CDがあり、なかに「思い出のサンフランシスコ」が収められていて、 オヤッと思った。

洗練された雰囲気と素敵なハスキーヴォイスが魅力のリー・ワイリー、なかでもアルバムNIGHT IN MANHATTANは女性ジャズボーカルの最高峰の一枚だ。ただ彼女についてわたしは戦前から一九五0年代にかけての歌手のイメージがあって、どうして「思い出のサンフランシスコ」?なのだった。

調べてみると一九0八年十月九日オクラホマ州に生まれ、一九七五年十二月十一日にニューヨークで亡くなっているからこの曲を歌ってなんらの不思議はない。ただし彼女は一九五七年七月にアルバムA Touch of the Bluesを録音したあと引退状態になっていて、一九七一年にカムバック、翌年ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演している。 戦前から一九五0年代にかけての歌手というイメージはカムバックを知らないことから来ていた。

話題を旅先のレコード店に戻せば、ふところ事情が許さなかったのだろう、このときわたしはそのCDを購入しなかった。あとで探そうにも国内盤の発売はなく、輸入盤を置いている店でもついぞ見かけなかった。

ときにリー・ワイリーの歌う「思い出のサンフランシスコ」を聴いてみたいなあと願いながらついに機会はなかった。ところが先日ネットで遊んでいるうちにとうとう見つけたのである。ジョー・ブシュキンのピアノをフューチュアした、しみじみと、しっとりとした魅惑の「サンフランシスコ」。ファイナル・レコーディングのアルバムに収められていて、おなじく「ムーン・リバー」もありました。

長年の渇を癒してくれたネットでの発見。「思い出のサンフランシスコ」をお聴きになる際はぜひ彼女のヴァージョンも御一聴いただければさいわいです。

 

七月二十一日トニー・ベネット氏が亡くなりました。九十六歳。ご冥福をお祈りします。