「ジャズ・ロフト」

第二次世界大戦で戦場カメラマンとして活動したあと、雑誌「LIFE」を中心に意欲的な作品を発表してきた ユージン・スミス(1918-1978)は一九五四年に「LIFE」誌編集部と喧嘩別れをして関係を絶ちました。

三年後の五七年、妻のカーメンと四人の子供たちと別居したカメラマンはニューヨーク、マンハッタンのロフトに移り住みます。家族を養えなくなるほどの困窮に家庭の不和が重なった結果の転居でした。

花屋の問屋街に位置するこの五階建てのロフトという空間は生活と仕事の場でしたが、たちまちジャズ・ミュージシャンたちのジャムセッションやリハーサルの場ともなりました。ここでユージンは写真家、フォト・エッセイストにくわえ、部屋中に録音用の配線を張りめぐらせオープンリールのデッキでジャズを録音する記録者となりました。

八年間にわたったシャッターと録音により四万枚近いミュージシャンたちの写真と四千時間にわたるジャムセッションのテープが遺され、これをもとにサラ・フィシュコ監督が撮ったのがドキュメンタリー映画「ジャズ・ロフト」(原題:The Jazz Loft According to W. Eugene Smith)で、二0一五年に製作、公開されていますが日本では十月十五日から上映されており、先月九月二十三日にはジョニー・デップユージン・スミスを演じた「MINAMATA ミナマタ」(アンドリュー・レヴィタス監督)が公開されましたから、軌を一にした、というか時宜を得た企画となりました。

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「ジャズ・ロフト」にあふれかえるジャズの魅力と熱気はミュージシャンたちの表情や演奏風景の写真と、テープに記録された音楽が一体となった賜物であり、魅力と熱気はシャッターを切る姿や現像に没頭するユージンの姿に通じています。

多くのミュージシャンたちのなかにはわたしの大好きなズート・シムズがいる(ユージンがズートの熱烈なファンだったと知り嬉しくなりました)、名演として知られるタウンホールコンサートに向けてホール・オーヴァントンとリハーサルや打ち合わせをするセロニアス・モンクがいる、ジミー・ジュフリーがいる(「真夏の夜のジャズ」が甦ってきました)、またこの映画のためにインタビュー出演したなかにはカーラ・ブレイが、村上春樹が訳した『さよなら、バードランド』の著者でベーシストのビル・クロウがいます。

ここでは主に「MINAMATA ミナマタ」以前のユージン・スミスの人生が辿られます。友人、知人、息子、娘たちが思い出とパーソナリティを語り、批評家が作品の特質を解き明かします。フォト界のレンブラントをめざしていた彼のモノクロ写真群は当時の現像技術が駆使され、光と影の具合が絶妙な作品をスクリーンでみているとなんだか贅沢な気分になってきます。「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリのあるニューヨークの街頭風景にはノスタルジックな雰囲気と哀歓が漂っています。

一九七0年八月ユージン・スミスはマンハッタンのロフトでアイリーン・スプレイグ(のちに妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会いました。富士フィルムのコマーシャルでのインタビューで、アイリーンが通訳を務めました。「MINAMATA ミナマタ」はここからはじまります。

(十月十九日Bunkamura ル・シネマ)