『シンドラーに救われた少年』

第二次世界大戦のおわりを十五歳でオスカー・シンドラーの工場において迎えた、つまりホロコーストを生き延びた少年の体験記である。原書《THE BOY ON THE WOODEN BOX》は二0一三年刊、邦訳は二0一五年古草秀子の訳で河出書房新社から刊行された。
少年の名前はレオン・レイソン、共著者として妻のエリザベス・B・レイソンとチャップマン大学付属ホロコースト教育センター所長マリリン・ハーラン教授の名前が挙げられている。
レオン・レイソンに本書出版の意向は伝えられていたが、本になったのはその歿後だった。刊行された年の一月に八十三歳で亡くなったために本書はまさしく著者の遺言となった。

ポーランドクラクフに生まれたレオン・レイソンは第二次大戦後米国に渡り、兵役に就いたのち、十歳で中断していた教育を受け、その後高等学校の教員となった。三十五歳のときオスカー・シンドラーをロサンゼルス空港に出迎えて再会していて、そのときのことをこんなふうに書いている。
「この再会の日、第二次世界大戦中のオスカー・シンドラーの英雄的行為を、世界はまだ知らなかった。だが、空港にいた私たちは、彼の偉業をよく知っていた。(中略)彼は自分の心と魂を駆使し、巨額の財産を投じた。彼は多くのユダヤ人労働者を救うために、なんの技術も持っていない私たちを軍需品生産に欠かせない熟練工だと偽ってナチスを欺いたのだ」。
しかもレオン・レイソンという十五歳の少年は十歳くらいにしか見えず、小柄で、飢えて瘦せこけた少年だった。工場では木箱の台の上に立たないと機械のスイッチに手が届かなかった。
「その木箱は、私を役に立つ存在に見せ、生きるチャンスを与えてくれたのだ」。
《THE BOY ON THE WOODEN BOX》はこの木箱に由来している。
ここにあるようにシンドラーとレイソンが再会した六十年代当時はシンドラーによるユダヤ人救出行為はほとんど知られていなかった。事態が変わったのは一九八二年のトマス・キニーリー『シンドラーズ・リスト』の刊行(邦訳は一九八九年、新潮文庫)と一九九三年のスティーブン・スピルバーグ監督の映画化(日本公開は一九九四年)によるところが大きく、それらの影響のなかで本書も執筆された。
「映画『シンドラーのリスト』の公開は、私の人生を大きく変化させた。それ以前の私は、過去についてはほとんど口を閉ざしていた。映画が注目を集めたとき、私は自分のそうした態度を考えなおした」のだった。
その結果が献呈の辞に「気高い行為で『世界の全て』を救ったオスカー・シンドラーへ」とある本書となった。そして一読したわたしはよくぞ書き遺してくれたと感謝した。
クラクフにおいてナチスははじめユダヤ人をゲットーに集め、つぎにゲットーを解体してクラクフ・プワシュフ収容所を設けた。
ゲットーの環境は劣悪だったからレイソン少年はそこから出られるのがたのしみだった。
「もうすぐプワシュフ収容所というところまで来た時点でも、私はまだゲットーから出られたことがうれしくてたまらなかった」。
ところが収容所に入ったとたん感情は一変する。
「まさに地獄だというプワシュフ収容所の第一印象は、その後、けっして変わることはなかった。一目見ただけで、そこはまったく異次元の場所だとわかった。ゲットーでの生活は悲惨だったとはいえ、少なくとも見た目だけは見慣れた世界のように思えた。(中略)プワシュフ収容所はまるで異質だった。そこは、ナチスが二ヵ所のユダヤ人墓地を破壊して、建てたものだった。不毛で、悲惨で、混沌とした場所だ。岩に土に鉄条網、獰猛な犬、冷酷な監視員、殺風景な宿舎(バラック)が何棟も見渡すかぎり並んで」いたのだった。
大人たちの言葉も変わった。
「以前なら、ユダヤ人の親は子供たちに『もうすぐ終わりになるから』と言っていたが、それがもはや通用しなくなり、『これ以上悪いことが起こりませんように』と言うようになった。
ホロコーストを奇跡的に生き延びた少年の感情が歴史のなかから直截に伝わってくる。
危険極まりないなかで少年の一家はシンドラーの工場へ雇われ、収容所本体から工場敷地内にあるサブキャンプへと移された。そこは工場内に宿舎を置いて働かせるほうが経済効率としてよいというシンドラーの提言で設けられたものだったが、収容所本体よりもはるかに生き延びる希望をもたらしてくれた。
ナチスにとってユダヤ人は絶滅を期すべきものだった。しかし戦争遂行のためには多大な労働力を必要としていて、ユダヤ人は安価な奴隷労働力であった。ここのところを見計らいながらシンドラーユダヤ人の囚人を多数雇用し、救出作戦を進めた。そのなかにレイソン少年とその家族もいて、かれらにとっては工場で働いているかぎり絶滅の可能性は低かった。
のちにレオン・レイソンはテレビで、神話学者兼作家のジョーゼフ・キャンベルがインタビューで英雄とは「最悪の状況で、最善を為す」ごく普通の人間のことだと語っているのを見て、「最悪の状況で、最善を為す」英雄はオスカー・シンドラーにこそふさわしいと確信した。
本書はアメリカ図書館協会優秀児童書に選ばれるなど数々の賞を受けた。このばあいの「児童書」にはシンドラーの救出作戦の本質がくっきりと、わかりやすく叙述されているという意味を含めなければならない。翻訳もその期待にしっかり応えた出来栄えだ。
オスカー・シンドラーに救われたあとレオン・レイソンは生き残った家族とともにクラクフに戻った。ところが案に相違して苦難は続いた。クラクフポーランド人だけのものだからとこの都市からユダヤ人がいなくなったのを喜んだ人たちがいた。かれらにとりユダヤ人の予想外の生還はやっかいな不安材料だった。
一九四五年八月十一日、キリスト教徒の少年がユダヤ人に殺されかけたと訴えたのをきっかけに暴動が起き、ユダヤ人の住む家屋の窓ガラスが割られ、シナゴークが襲われた。事件後、悩みぬいた両親はレオン・レイソンをつれて米国に移住し、レオンの兄はチェコスロバキア経由でイスラエルへ向かった。
こうした戦後のクラクフの状況についての記述はトマス・キニーリー『シンドラーズ・リスト』やミーテク・パンパー『救出への道』にはなく、その点で貴重である。
クラクフは歴史的にユダヤ人が多く住み、ナチスによるポーランド侵攻の前年一九三八年には六万四千人を数えていて、この都市の全人口およそ二十五万人の四分の一に相当した。現在クラクフにいるユダヤ人は二百人ほどだそうだ。ポーランドを旅してクラクフに魅力を覚えた者としては寛容がずいぶん失せた気がして、残念な思いは否定できない。