初春に読書計画

お正月。ことしの読書計画を練る。主題はお酒。まずは吉行淳之介編『酔っぱらい読本』全七巻という格好のアンソロジーがあり、酒にまつわる魅力的な小説やエッセイや落語や古今東西の詩がずっしりと詰まっている。最終巻の奥付は昭和五十四年十一月二十八日で、当時買い揃えたがしばらくして売り払ってしまい、昨年古書店で再度購入した。

刊行されたころわたしはいまほどお酒を愛していなかったから簡単に手放した。いまはお酒も『酔っぱらい読本』も愛おしい。お酒を口にしない人はともかく、酒と料理とは密接な関係にある。酒が料理への関心を高める。お酒の本とともに料理についての本も読むことになるだろう。できればブリア=サヴァラン『美味礼讃』にチャレンジしてみたい。

わたしが本を手にする動機は、ハラハラドキドキする楽しい時間、また趣味についての知識や見識を深める時間を過ごしたい、未知のことがらを知りたい、自分が考えていることを共感とともに確認したい、といったところで、もちろんこれらは複雑に絡み合っている。

いっぽうでこれまでも、これからもご縁はないだろう作家がいる。たとえば石原慎太郎大江健三郎堤清二三島由紀夫(ただし三島のエッセイは除く)、理由はわかっているようでそうでもない。ただしアンソロジーとなると別の話になるがいまのところ『酔っぱらい読本』には上の諸氏のお名前は見えない。

アンソロジーとは別に個別の作家、エッセイストとなると、これまで親しんできた吉田健一開高健は外せない。そうしてかねてより気になっていた若山牧水を新しくお酒とともに味わいたい。

「船なりき春の夜なりき何処なりし旅の女と酌みし杯」

「酒の香の恋しき日なり常盤樹に秋のひかりをうち眺めつつ」

開高健とくれば寿屋(サントリー)つながりで山口瞳がいるが、ここに問題がある。

わたしは山口瞳の熱心な読者ではなかった。論文で言及するという事情から気合を入れて読んだのは『血族』で、あと単著では『酒呑みの自己弁護』があるがほとんど記憶になく、今回再読リストに加えた。問題というのは「週刊新潮」に三十二年間にわたり掲載された名物コラム「男性自身」で、さきごろ全編が電子本で集成されているのを知った。全八巻、各巻二千二百円、さてどうしたものか。

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年明け最初の映画は初詣みたいなものだから大好きな作品にしようとテレビの前に座り「カサブランカ」を観た。何度目かわからないがいちばん回数を重ねた映画だ。それなのに不覚を愧じなければならないが、冒頭のクレジットでモンタージュのスタッフにドン・シーゲルの名前があった!これまでまったく気づいていなかった。

ご承知のようにクリント・イーストウッドは「許されざる者」を二人の師、セルジオ・レオーネドン・シーゲルに捧げている。

気づいていなかったといえば 映画のあと佐藤春夫「酒、歌、煙草、また女ー三田の学生時代を唄へる歌」を読んだところ、作者の紹介に「大正二年慶大中退、この頃二科会に油絵で三年連続入選して多才ぶりを発揮した」とあった。

「孤蝶、秋骨、はた薫/荷風が顔を見ることが/やがて我等をはげまして/よき教ともなりしのみ」。詩の一節は知っていたが作者の画才は知らなかlった。

ついでながら刑事コロンボシリーズの名編「別れのワイン」で、捜査のうえでワインの知識を得ようとコロンボが知り合いのバーテンダーに「いいワインを見分ける方法を教えてくれないか」と訊ねると、バーテンは答える。「値段の高いのがいいワインだ」。単純にして明快、これでわたしもワイン通の序の口に立ったとしておこう。

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引き続き読書計画をあれこれ思案している。

「飲んでから読むか?飲みながら読むか?飲む前に読むか?飲まずに読むか?読まずに飲むか?」 吉行淳之介編『酔っぱらい読本』第三巻の帯、いわゆる腰巻より。

酒好きが高じてお酒にまつわる本を読みたくなり『酔っぱらい読本』とともに青木正児『中華飲酒詩選』もふたたび購入した。

西脇順三郎が「山の露」というエッセイで「唐詩から酒を取り去ったならいかにその詩的要素がぬけることだろう。そういう意味で酒が昔の文化にかくことの出来ない存在であったにちがいない」と述べている。となるとまずは青木正児『中華飲酒詩選』を読まなくてはならない、というか本書のほかに中華飲酒アンソロジーを知らない。

著者は周代から唐代にかけての詩を選んでおり、その中心をなすのは、陶淵明、李太白、白楽天であると述べている。ここから進んで、三人の詩集を繙きたいところだが和漢洋のなかでもとりわけ漢の知識を欠くわたしには難しいだろうなあ。

ここで洋の話題を。

スコッチウイスキーはもとはスコットランドの地酒だった。それが世界を風靡するようになったのはひとえに貯蔵とブレンドの技術に心血を注いだ賜物といわれる。資源にめぐまれないことが酒造の技術を高めた。(坂口謹一郎「君知るや名酒泡盛」)。沖縄の泡盛誕生にも似たような事情があったそうだ。 いまはどうか知らないがドイツの小規模焼酎業者のあいだには、馬鈴薯で焼酎を造り、その蒸留粕で豚を飼い、豚の排泄物を肥料にして馬鈴薯を作るという循環焼酎造りが行われていた。こうした叡智は世界各国にあるのだろうが、どれほど継承されているのだろう。お酒からいろんなものが見えてくる。

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《「夜鷹そば」はいかにも江戸らしい風情のあったもので、細いあんどんにお定まりの当り矢、手拭をとんがりかぶり(けんかかぶり)にして、風りんをチンリンチンリン「そばァウーイ」とくる。筒袖のこしらえ、これに按摩、犬の遠吠えは深夜の形容の仲間だ……》。

高村光雲(光太郎の父)の語りが素晴らしい!それもそのはず、光雲の聞書をした子母澤寛は『半七捕物帖』を読み返し、途中であの話をしている半七老人と光雲先生とがごっちゃになって困った、はじめ半七のつもりで読んでいると、いつのまにか光雲先生になってしまうので、聞いていると自分で江戸を見てきたような気持でいた、と述べている。

そばといえば、江戸の意固地な人たちは座ってでなければいや、腰掛けで食うくらいなら食わないかったという。おなじく酒飲みを左利きというのは、右手が鎚手で左手が鑿手という言葉のうえの洒落なのに、酌を受けるときは必ず左手で受ける、何かで左手がふさがっていても左手で杯をとらなければ気がすまなかった。あまりの意固地は人生を窮屈にするのに。

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一月十五日、大相撲一月場所中日。十両力士の土俵入りの前に国技館へ。朝乃山と炎鵬が十両のお目当てである。コロナ禍で長らくご法度だった声を出しての応援もよいことになり、館内は活気づいている。毎度のことながら枡席でビールを飲みながらの観戦は仕合わせのひとときだ。

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旅の魅力について吉田健一が、二級酒を海苔だけで飲んでも旅の酒はよい、そして土地の料理が実際にうまければうまいほど楽しみも増す、と説いていて、わたしが、国技館に一日出かけて枡席でビールを飲み、打ち出しのあと両国の蕎麦屋さんで腰を落ち着けるのは旅ではないが気分は似たところがある。

「そして宿屋では朝寝をすることも出来れば、朝風呂に入れもするし、後は宿屋ででも、或は土地の人に案内されたどこか別の所ででも、次に乗る汽車が出る時まで飲んでいられるとなれば、何も特別に旨いものでなくても、こうして晩まででもいられると思うことが食べるもの、飲むものを旨くする」という吉田健一に倣っていえば結びの一番また弓取式までいられると思うと、食べるもの、飲むものがうまくなる。

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中江兆民「三酔人経綸問答」の木下順二による現代語訳に「彼等もし他国の批判に気を兼ねず、国際法に遠慮もせず、議会の論議に耳をかさず、邪心をもって襲いくる時は、われらはただ力のかぎり抵抗し、国民すべて兵士となり……」とある。「彼等」をロシアと読み替えればまさしく現代の世界を照らしている。一八八七年(明治二十年)に刊行された古典の威力である。

もちろん大きな変化はあった。列強による中国侵略はその最たるもので、兆民は「中国の国土は広大、人民は無数、実にわが国の一大市場であって、湧いて尽きることのない利益の源泉だ。この点を考えもせず、当面国威を発揚したいばっかりに、些細な言葉の行き違いを口実にむやみと喧嘩をあおりたてるがごとき、僕はもっとも愚劣な策だと見る」と警鐘を鳴らしている。 

その中国はいま世界に国威を発揚しようとしていて、他国の批判に気を兼ねず、国際法に遠慮もせず、邪心をもって襲いくる ロシアと連携を強化している。

帝国主義列強が競い合うなか、兆民は、日本は「世界いずれの国といわずたがいに友好を強め、万やむを得ぬことになっても防衛の戦略を守り、遠征出兵の労苦失費を避けて、つとめて人民の肩の荷を軽く」すべきであると説いたが、その後の日本は別の道へ進んだ。

昨年十二月、政府は23年~27年度までの防衛関連経費の総額を43兆円程度とすることを閣議決定した。これは、現行の中期防衛力整備計画(19年度からの5年間)の総額27兆5,000億円のざっと1.6倍という、過去最大の増額となる。単純計算で、現在、国民一人当たりの防衛費の負担額は年間約4万円が27年度にはおよそ7万円となる。

国際情勢を考慮すればそれなりの軍備拡張は必要だがつとめて人民の肩の荷を軽くする方策を追求すべきだ。

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「われわれの宗教は悪徳を根絶するために作られている。ところが実際は、悪徳をかばい、養い、掻き立てている」。

モンテーニュの慧眼に統一教会問題やプーチンを讃えるロシア正教会を思う。ヴォルテールは狂信に宗教的寛容を対置し、モンテーニュは良心を拠り所とした。思想史として過去を遡るとセネカキケロたちの先賢がいた。

またモンテーニュは言う「信仰は秩序と節度によって導かれれば、神の理性と正義に相通じるが、人間の条約によって導かれれば、憎悪と嫉妬に変じ、小麦と葡萄の代りに、毒麦と蕁麻を生み出す。何という化物じみた戦争であることか!」と。ここから察するにロシア正教会は「化物じみた戦争」にも神の意志を感じているみたいである。

強力な独裁者のもとでは良識や常識はまったく必要なく、重要なのは判断停止という手続きである。ヒトラー独裁のもとでのドイツの政治家、軍人についていわれた言説だが、普遍性を有しているのはロシア正教会を含む現下のロシアを見ればよくわかる。年金老人は酒で少しばかり憂いを忘れるくらいが関の山だけれど。

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寺田寅彦が昭和十年七月の「文学」誌上に書いた「B教授の死」に「梅雨晴れのから風の強い日であって、番町へんいったいの木立の青葉が悩ましく揺れ騒いで白い葉裏をかえしていたのを覚えている」という一節があった。わたしの読書の記憶では「悩ましい」を用いたいちばん早い事例である。

それまで知る古い例は石坂洋次郎青い山脈』での「悩ましい」を「脳ましい」と書いた偽ラブレター事件だった。この言葉、言海には立項なく、新明解には寺田寅彦が用いたごとく「官能が刺激されて平静でいられない感じ」との語釈がある。

わたしは「悩ましい」をもっぱら官能刺激の意味に解していたから、上司から、A案で行くかB案にするか悩ましいなあと言われて、一種の誤用を冗談の言い回しとしていると思ったし、上司もそのつもりだったはずだ。昭和の終り、平成のはじめのころだった。

ところがその後「悩ましい」はずいぶんと普及して官能から離れて独り立ちしてしまった。

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三月五日の東京マラソン2023に向けアシックスランニングクラブのコーチ陣による十週間のコーチングを受けている。一週間に一度ヴァーチャルレースを走り、ZOOMとLINE での指導である。ただしきょう一月二十二日はリアルイベントの日、味の素スタジアムのAGFグラウンドでコーチング付きで走った。

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自己ベスト更新を目標にして走ったころや他人様との闘いの記憶は薄れ、いまは自分との闘いで精一杯の日々、精一杯というのは、楽してフィニッシュする意味ですけどね。ハーハーゼーゼーしてちゃ、走れないですから。

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英語学習教材OXFORD BOOKWORMSの最終段階レベル6でDubliners次いでJane Eyreを読んだが前者ジョイスは難しかった。較べるとJane Eyreはすらすら読め、おれはずいぶん英語の力がついたんじゃないかと誤解したほどだ。つぎはOliver Twist だ。 

Oliver Twistのあとは邦題で『高慢と偏見』『テス』『虚栄の市』『白衣の女』といずれも名作が並ぶ。いま読んでいる『オリバー・ツイスト』は映画化、TVドラマ化されていて近く鑑賞予定、そして『テス』は4Kリマスターで劇場公開されている。なんだか世界文学全集のなかにいる感じ。できればことしの上半期に OXFORD BOOKWORMS を読み終えたい。それからは語学学習教材ではなく単行本の世界に入ることとなる。いま書架にあるのはドナルド・キーン訳Essays in Idleness(徒然草)とCasablanca(映画カサブランカの台本)の二冊。待っててくれよな。

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一月三十日。東京マラソン2023に向けての十週間にわたるコーチングもいよいよ走り込みの時期にはいった。先週は20km、今週は最長の25km、いつもどおり週はじめの月曜日のきょう完走したが、レースやお仲間といっしょに走るのと違い、一人旅の25kmは鬼きつかった。わたしの一人走りはこれまでせいぜい20kmほどで25kmは未体験ゾーンだった。走るのはよいが、むやみと一人で長い距離を走るのは荒業苦行の様相を帯びる。挑戦できたのはコーチングでの距離指定の賜物である。

走ったあと銭湯へ行きたかったが、十分ほど歩くのがつらくて自宅の浴槽で我慢した。晩酌は一日置きできょうは晩酌日じゃなかったけれど、掟破りで500ml缶のビールを飲んだ。旨かったなあ。掟破りの背徳の美味も含めて。

来週からは走行距離が減り、調整期に入る。

「ビールの力の大きさよ、悲しみに拉(ひし)がれた心にも

変ることのないなぐさめがひとつあるー大ジョッキよ。」

チャールズ・スチュアート・キャルヴァリー(1831-84)イギリスの詩人、ざれ歌作者。エイミス『酒について』(吉行淳之介・林節雄訳)より。