坪内祐三を読む

D・M・ディヴァイン『運命の証人』(中村有希訳、創元推理文庫)を読んで故水野晴郎の「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」を思い出し、「いやぁ、ミステリーって本当にいいもんですね~」とひとりごちた。

友人から「眠れる虎」とあだ名された弁護士が、その友人の死を殺したとされて眠りから覚める。「眠れる虎」から事件の謎を解くめざめた虎へ、すなわち『運命の証人』はミステリーであるとともに一人の男がさまざまな体験をとおして成長してゆく「教養小説」、解説の大山誠一郎氏のいう「主人公の自己発見と再生」の物語であり、その点で氏はディヴァインにたいするパトリック・クエンティンの大きな影響を指摘している。クエンティン『二人の妻をもつ男』はわたしの大好きな作品だから『運命の証人』にあらためてミステリーの魅力を覚えたのは納得の筋道だった。

「おやすみなさい、ジョン」彼女は身震いした。「寒いのかい?」ハリエットはうなずいた。しかし、寒がっているというより、怯えているように見える。「ぼくはかなり優秀な湯たんぽだよ」。このときジョンは湯たんぽ役とはならなかったがラストでハリエットは「わたしのために熱い湯たんぽを用意してもらえる」とささやく。

体温は加齢とともに低くなってゆくものなのだろうか、かつてはわたしも、あなたって温かいといわれたものだったが……。

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平日のジョギングのコースは不忍池の周回と上野公園を、土日は本郷通り駒込~西日暮里~谷中を走る。谷中では小沢信男氏の私邸のまえを通る。ことし三月三日に九十三歳で亡くなった同氏の『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)を読んでいると句集に「夕霞ここらに色川武大の墓」があり、さっそく谷中霊園にある色川武大の墓にお参りした。

色川武大の命日は一九八九年四月十日、享年六十。

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坪内祐三文庫本を狙え!』(文春文庫)に、田中小実昌が雑誌「東京人」の編集者だった坪内と取材に出かけた際、飛行機雲を眺めながら色川が歿した残念をつぶやくくだりがある。

「バスを待っていると、コミマサさんは、あっ、飛行機雲とつぶやいた。飛行機雲を見つめながら、コミマサさんは、その一週間前に亡くなった色川武大の話をはじめた。いい作家だったのに……。寂しいね……」。

『ぼくの東京全集』に収める句集からもう二句、わたしの撮った写真を添えて。

向島長命寺成島柳北の碑あり 花吹雪むかしの人は顔長く」

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「三輪浄閑寺、新吉原総霊塔を仰ぐ 新月や遊女の骨のほそさほど」

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なお小沢氏の遺著『暗き世に爆ぜ』(みすず書房)という書名は「宮武外骨の墓をたずねる  暗き世に爆(は)ぜかえりてぞ曼珠沙華」にもとづいている。染井霊園の外骨のお墓のそばの名詞受けの小さな石柱に刻まれていて、石柱は二0一三年の外骨忌、八月の最初の土曜日の三日にお披露目されている。いずれたずねてみよう。

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坪内祐三『文庫本福袋』(文春文庫)を読み終え、順不動ながら「文庫本を狙え!」全篇を読み終えた。八割以上は「週刊文春」と一部単行本で読んでいたけれど、こうして体系的に読むと著者の狙いや意図もうかがわれて新たな発見がある。千篇を超すすべてを文庫本で集成してくれる出版社はないものか。

引きつづき『酒中日記』(講談社)を読んでいると、二00九年一月二十二日の記事に、大相撲観戦のあと「終了後、人混みをさけるように両国駅をぬけ、両国橋を渡り(そこから眺める柳橋の風景が私は好き)、靖国通りでタクシーを拾い……」とあった。先日おなじ界隈を散歩したわたしはうれしいぞ。

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写真はそのとき撮ったもので、坪内祐三が好きだった両国橋から眺めた柳橋の風景。落語の「船徳」では道楽が過ぎて勘当され、船宿の二階に居候の身となった若旦那の徳兵衛が、船頭になりたいといい出し、そのあげくに大騒動を起こしたのだった。

徳兵衛が身を寄せた船宿の大枡は柳橋にあった。若旦那から船頭となった徳兵衛には、柳橋から大川へ出るのはたいへんな苦労だった。わずかな距離だけれど「たしかもう少し漕げば大川ですから」というセリフが笑わせる。大川へ出ると、土手の上にいる竹屋のおじさんが、子供を連れた女の人を落としたことのある徳さんを心配している。

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坪内祐三が『文庫本玉手箱』で取り上げていた澁澤龍彦太陽王と月の王』(河出文庫)を読んだ。

なかで澁澤は「いささか大げさにいうならば、戦後日本のモラルを荒廃させた元凶ともいうべきは、このディジタル思考ではないかと疑っているのである。でたらめな国語改革や町名変更は申すに及ばず、政治経済や教育までのあらゆる分野においても豊かなふくらみのあるアナログ思考を、官僚的で能率一点張りのディジタル思考が駆逐しつつある」と述べて安易な独創性への警戒を表明している。

アナログ思考とデジタル思考を十分に理解していないわたしだが「能率一点張りの思考」が判断の基準になるのだろう。 デジタル時代であればこそ強く意識しておかなければならない課題である。

鶴見俊輔が、日本は日露戦争後から、問題意識抜きで解決の学習に専念してきたと述べていて、澁澤の言説を理解するための補助線を引いてくれている。 

「状況のなかであがき、自分で問題をつくってその問題をとくという流儀は、速効性がないために、学校教育でまず失われ、国民と国家のあいだに問題ぬきで解決の学習に専念するという合意が生まれ、その習慣は敗戦と占領、そしてバブル崩壊をこえて今日もつづいている」(『回想の人びと』)

なお百年以上にわたる国家あげてのマニュアル学習について疑義を挟んだ人として鶴見は中江丑吉林達夫花田清輝長井勝一をあげている。そしてわたしはここに鶴見を加えよう。

ご承知のようにことし九月一日にデジタル庁が設置された。古くさい割に利便性の追求の好きなわたしとしては澁澤の断定に疑問をも覚えているのだが、 さてどうなることやら。

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おなじく澁澤龍彦太陽王と月の王』のなかの一篇「元号について」に、著者が「昭和、昭和/昭和の子供よ、ぼくたちは」ではじまる歌を愛唱していたとあった。後年になっても澁澤は題名不詳のこの歌を人前で歌うこともあったそうで、天皇制やイデオロギーとは別に元号への親しみを覚えていた。

元号について」は「ともあれ、私は歌にあるように『昭和の子供』として生まれたのだが、はたして死ぬ時は、どんな元号のもとに死ぬことになるのだろうか。たぶん、苦々しい気持とともに、新しい元号を受け入れて死ぬことになるであろう。新しいものに、ろくなものはないのだ」とむすばれている。

澁澤龍彦は一九二八年五月八日 に生まれ一九八七年八月五日に沒した。元号だと昭和三年と昭和六十二年。「元号について」が書かれたのは昭和五十四年、このときは「新しい元号を受け入れて死ぬことになるであろう」と思っていたが、昭和の子として生まれ、生きたのは昭和一代だった。

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坪内祐三梅崎春生『狂い凧』『幻化』を戦後文学の優れた作品として高く評価し、そこに「私がここで言う戦後文学とは戦前から戦後へと続いて行く(もちろんその間には戦争という大きな出来事がある)メンタリティーを描いた作品だ(その意味の戦後文学は昭和五十年代になくなり始め、昭和六十年台に消滅する」と注釈を加えていた。

戦後文学についてどのような議論があるか詳らかにしないわたしにもこの説明は納得できる。

団塊の世代のはしっこ、一九五0年(昭和二十五年)生まれのわたしがはじめて読んだ長篇小説は石坂洋次郎青い山脈』だった。戦前の「古い上着よさようなら」して民主主義の道をあゆむ日本の姿を讃えた作品もまた「戦前から戦後へと続いて行くメンタリティー」を描いた戦後文学であった。そして戦後文学であるかぎりいくらさようならしても「古い上着」へのこだわりは消えない。

多少なりとも戦後文学のメンタリティーをもつわたしはいまも古い上着にいささかこだわり、完全に訣別できない。戦没者への哀悼の意やアジア諸国への謝罪だとかの議論を、なぜいまごろくどくどしているのだろう、戦争のことなどいつまでも思わなくてよいといった天真爛漫も、リバタリアンとして自分の属する組織に忠誠を誓ったことは一度もなく、団結を鼓舞するいかなる装置(式典や国家や校歌)をも糞くらえと思っていた池田清彦氏の言説もともに羨ましい。

それはともかく「昭和五十年代になくなり始め、昭和六十年台に消滅する」戦後文学の中間の年、昭和五十五年に芸能界を引退したのが山口百恵で、偶然ながらわたしはここらあたりからのちの歌をほとんど知らないから戦後文学の消滅とともにわが歌謡曲のレパートリーも終わったのだった。永井荷風「震災」の「われは明治の児ならずや。去りし明治の児ならずや。」をまねると、やはりわたしは昭和の児である。

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坪内祐三文庫本を狙え!」全篇を読み、いま バラエティ・ブックの趣きがあってたのしい『本の雑誌坪内祐三』(本の雑誌社)を読んでいる。なかに「短期集中講座◉坪内祐三先生の名編集長養成虎の穴」があり、「中央公論」の瀧田樗陰、「文藝春秋」池島信平、「本の雑誌」の目黒考二を話題にして名編集長のあり方について語っている。

なかに池島信平(1909年-1973年)のエピソードがあり、この人、ただのスケベとかじゃなくて病的に女の人が好きで「銀座のある有名なホステスさんで腹上死したんですよ」「湯島に緬羊会館って、今でもあるのかな、当時、レストランがあったらしくて緬羊会館で食事中に急死となっているんだけど、実際は湯島のラブホテル」だったそうだ。まだ六十代の前半だったんだな。

実事の真っ最中の死と聞くと若いときはクスッと笑っていたけれど古稀を過ぎるとあれこれ死にざまを思い複雑な気持になる。池島信平は病的に女の人が好きだった。わたしも好きだが程度は人並みだろう。確信はないけれど。

ところで以前だったら『本の雑誌坪内祐三』のような本の話題がぎっしり詰まった本を読むと、さあこのなかからいずれを買うとするかと心ときめいたのに、もうそうした意欲は湧かない。読書欲の衰えと諦念がある、自身の限界を忘れて大量の本を抱えた反省がある、年金生活という貧乏がある。それでもなお本の話は好きで、たのしい。

本の話とブックガイドを兼ね備えた本を読みながら、本を買う意欲のないわたしは、将棋を指さない将棋ファン、碁を打たない囲碁ファンのようなものか。そういえば鉄ちゃんと一括りにされる鉄道ファンにも「時刻表鉄」とか「スジ鉄」とかいろいろ流儀があってみんな鉄道に乗るのでもないそうだ。

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市谷、飯田橋、神楽坂界隈を散歩した。いちばんのおめあては市谷で、ここは永井荷風『つゆのあとさき』(「中央公論」一九三一年十月号初出)で主人公のカフェーの女給君江が間借りしていたところだった。

この小説はそれまで芸者や娼妓をもっぱらに描いてきた荷風が対象をカフェーの女給にシフトした作品で、君江は銀座のカフェー「ドンフアン」に勤めていて、住まいは「市ヶ谷本村町◯◯番地、亀崎ちか方」に間借りしている。防衛省市ヶ谷庁舎や駿台予備学校市谷校舎がある本村町という町名がいまも健在なのがうれしい。

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本村町の隣が市谷八幡町、名前からおわかりのように市谷亀岡八幡宮がある。ここも小説の舞台となっていて、君江のパトロンを気取る作家の清岡進が、このお宮で彼女がカフェーの客の老人といっしょにいるのをみて嫉妬の炎を燃やし、嫌がらせを繰り返すようになる。事情を知らない君江とその周囲の男たちとの関係の物語のなかに当時の銀座の風俗模様やモダンなアイテムが描かれる。

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同名の映画が一九五六年に松竹で中村登監督により映画化されている。主演は杉田弘子。長年鑑賞したいと切望しているのにかすりもしない。