政治と宗教と寛容と~辻邦生『背教者ユリアヌス』

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(331年もしくは332年-363年6月26日)はキリスト教を批判し、ローマ多神教を支えとした「異教徒皇帝」であり、ローマ帝国最後の「背教者」皇帝だった。(在位361年11月3日-363年6月26日)

辻邦生『背教者ユリアヌス』(中公文庫全四巻)はユリアヌスの伝記小説、また彼の生きた時代の歴史小説、そして政治と宗教と寛容をめぐる物語だ。

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ローマ帝国ははじめ皇帝崇拝を拒否する異教としてキリスト教を弾圧したが、下層民のあいだに、ついで市民、上層民に信者が増えるとともに、コンスタンティヌス帝(在位306年-337年)は帝国の安定的支配を念頭に313年ミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。

ユリアヌスはコンスタンティヌス帝の甥にあたる。彼が帝位に就いたころ、ますます盛んとなった布教はキリスト教に強い政治力をもたらしており、キリスト教徒であることがローマ帝国に対する忠誠の証とされようとしていた。

辻邦生はユリアヌスの思いを「最近では、宮廷役人になるにも、属州の地方官吏になるにも、キリスト教の洗礼を受けなければならぬ仕来りが生まれていた」「宮廷や地方政治と結びついて露骨に勢力の拡張を計るこうした布教活動を見るにつけ、ある種の嫌悪すら感じるようになっていた」と述べている。

勢力拡張と出世に汲々とする聖職者、役人。布教はときに暴力を伴った。エフェソスの教会を出てきた人々がローマ神教を信じる少女を取りまき、威嚇し、投石して傷を負わせるに到った。ユリアヌスはそこに「熱狂と集団的な行動と知識の無視」を見た。反キリスト教ローマ帝国への叛逆となる事態は皇帝権力と教会には都合がよかったが根底にあるのは宗教の政治的利用と狂信とキリスト教以外の宗教に対する不寛容だった。

いっぽうユリアヌスは「私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由のなかだけに存在するのだ」と考えていた。危険をもたらす可能性は否定しない。「しかしその危険を通ってしか、人間がそれに到達しえないとしたら、私は、やはりこの道を選ぶほかないだろう」。

フィリポポリスでは、マケドニア派と呼ばれた教派の人々が、アリウス派の修道士を死に到らしめた。ローマ帝国内ではキリスト教の教義をめぐって正統の獲得と異端の排除が血を流してまで行われており、この姿を前にユリアヌスは思う「真理がなんで自らの手を血で汚す必要があろう。正義がなんで自らを不正な手段でまもる必要があろう」と。

歴史に異彩を放つ「背教者」の気持を辻邦生は切々と伝えている。

のちにフランスの宗教戦争をまのあたりにしてモンテーニュ(1533-1592)は「宗教を左に取ったもの、右に取ったもの、それを黒だというもの、白だというもの、そのいずれもが宗教を自分たちの過激で野心満々の企てに利用している点ではまったく選ぶところがない。その振舞いが放埓で不正であることにかけて、彼らはみごとに一致している」「キリスト教徒の敵意ほどすさまじいものはどこにもない。われわれの熱情は、それが憎悪、残虐、野心、貪欲、誹謗、反逆に走るわれわれを助けるときには驚くべき働きをする。反対に、親切、好意、節度への傾向となると、奇跡でも起こったようになにか稀な気質が手を貸さないかぎり、この情熱は、走ることも、飛ぶこともできない」と『エセー』にしるした。(保苅瑞穂『モンテーニュの書斎』より。訳文も同氏)

宗教における「熱狂と集団的な行動と知識の無視」を厳しく批判した点において、ユリアヌスとモンテーニュはヨーロッパの精神史においてひとすじの糸で繋がっている。

ギリシア文化の影響を受け、多神教の復活をめざした「背教者」の精神の基盤にあったのはキリスト教一党独裁に対する宗教的寛容であり、『背教者ユリアヌス』はそうした観点から描かれたユリアヌス像であり、作者はこの皇帝への思いを「ユリアヌスの生涯が必死になって真理であることを求めようとし、自らも時代の曲り角で、右にゆき左にいって苦しみつつ、最後にキリスト教を拒否して死んだ。その激しい人間への意志と英雄らしさが心をひく」と吐露している。

「時代の曲り角で、右にゆき左にいって」ユリアヌスが確信した思いを作者はこう述べた。

「ローマとは各自が自己を主張しつつ共存する自由にほかならぬ。私が宗教の寛容を許すのは、かかるローマの精神に基づいているからだ。諸君は諸君自らの主張に立ちつつ、ローマの秩序に服さねばならぬ理由もここにある」

「ローマの寛容とは、ただ敵や異民族を放置して、その無制限な横暴を見て見ぬふりをすることではない。もしこの寛容の背後に、寛容をもたらした精神の火が燃えていないのなら、それは無責任な傍観に等しい。寛容が寛容であるためには、それを支える確たる精神が目覚めているのでなければならぬ」。

この思いが活かされなかったところに、モンテーニュが見た宗教戦争は勃発した。ユリアヌスはキリスト教の不寛容の危険性をいち早く洞察した「背教者」だった。熱狂と集団的な行動と知識を無視してキリスト教の唯一絶対性を志向したローマ帝国キリスト教徒に対して、ユリアヌスは寛容と相対的な調和感覚を求めた。そしてこの問題はローマ帝国キリスト教にとどまらず、二十世紀の左右の全体主義、そして現代の国際社会のありかたにもつながっている。